いつも開いている小窓から
 
 
 
小窓をいっぱいに開けて、六月の風と光をあびています。
 
 
<小説家になりたい…>
それは、わたしの小学生の頃からの夢でした。小学校の卒業の文集にもそのことを書いています。
わたしのその思いが揺るぎのないものだと知ったとき、母は少し心配そうな表情でいいました。
「夢は大切だけれど……もしも、作家になれなかったとしてもがっかりしないでね。うちはお父さんもわたしも特別の才能があるわけではないから……そんな才能をあなたに与える事はできなかったかもしれない……」
わたしは妙に母の言葉に納得しました。
「有名な作家になれたらいいけれど、そんな大それた願いではなくて、一生に一冊、自分の本が出せればいいの」
わたしは、本心からそう願って母に答えました。
安心したように微笑んだ母の細い目を今でも覚えています。
母が亡くなる数年前、わたしが高校生のころでした。
母はきっと、高すぎる望みと現実の狭間でわたしが無い物ねだりをして苦しむことをおそれたのでしょう。
(人生のうち、小さな願いが、やっとひとつでも叶えば ほんとうに幸せ。それでじゅうぶんなのね…)
母はそうわたしに言いたかったのだと思います。
……今、わたしも娘にそう伝えたいからです。小さな幸せを大切に積み重ねて生きていって…と。
 
出発点がそんな思いだったので、わたしはほんとうに<生涯、一冊>の本が出せれば満足…と思ってきました。
それが23歳の頃、叶いましたがその本がリライトの<ドンキホーテ(集英社)>だったので、今度は(創作が出たらいいなあ、一冊でも)……と欲が出てしまいました。
すぐに<詩集 思い出は歌わない(サンリオ出版)>が出版されると、今度は(小説が一冊でたらいいなあ)などど、あきれた欲張り者になってしまいました。
しかし、<生涯一冊>はクリアーできたので、なんだかもう<余生>のような気がしていたことは本当です。
 
その後……
こんなにたくさんの本を出版していただけるとは……!!
母が生きていたら、そして小学6年生の時亡くなった父がいたら、「よかったのう」と岡山弁で喜んでくれたでしょう。
 
そんなわけで、今でも作品を書くたびに<これが最後かもしれない>という思いがあります。いつ終わりになっても、もうクリアーしているので(!)まあ……いいか、と。
けれど、欲はまだ残っていて、それは、自分で納得のいく作品がいつになったら書けるのだろう、ということ。わたしはコクヨの安い作文用紙を使って書いていますが、たまに、
「もっと立派な原稿用紙を使いなさい」といって下さる方もいます。その都度、
「満足のいく作品を書けたらね」と答えてきました。
ああ、当分は作文用紙のままかもしれません。(わたしは”手書き”がすきです。)
自分の作品はどれも愛しいけれど、読み返すと未熟さが目立つからです。
*****
 
<漫画の原作>の仕事をはじめた時、作家の先輩諸氏はみんな反対しました。
 
「そんな仕事ははやくおやめなさい。編集者と漫画家に利用されるだけです」
 
……その言葉はハラハラと落ち葉のようにわたしのなかに沈んでいきました。
<漫画の原作>はそんなふうに思われる仕事なの……?
 
けれど、わたしは<漫画の原作>が好きなのでした。
わたし自身はやさしく、理解のある編集者たちに囲まれて、お話作りがとても楽しかったのです。(だからこそ、ほかの編集者の原作者への怜悧な考え方にも気がつきませんでした。)
漫画の原作によって、わたしは<大河ドラマ><連載作品というもの><引きの大切さ>を学ばせていただいたのです。
 
けれど……十年くらいたち、わたし自身も少しずつ<漫画の原作>という仕事を続ける事に疑問を抱き始め、くぎりをつけました。
先輩作家たちがいった……あの<哀しい言葉>にどこか真実を感じたからかもしれません。
 
それから、また15年。
この事件が起こった時、また、先輩作家たちの言葉が甦ってきました。
15年の間に<漫画原作>の仕事も世の中に認められてきたと思います。
しかし、この事件を通して、今でも<業者たち>は勿論のこと<漫画の出版社><アニメ会社>でさえも、<漫画原作>という仕事に敬意さえ抱かない人たちが多くいることが分かり愕然としました。原作者と一緒に仕事をしてこなかった編集者たちの中には<見えている漫画>にしか視点がいかない人も確かにいたのです。
<原作>は見えません。
<原作者>の作品も<漫画>なのです。
その大事なところ(原作者も著作権者)を出版関係者でさえ理解していない人もいるのだ、と気がつき、途方に暮れました。
 
いがらしゆみこ氏は今も<原作は参考著作物にすぎない>という主張です。
その主張に同意する漫画家もいることも分かりました。
そういった考えの漫画家たちだけを責めるわけにはいきません。
漫画家と同様に考える<漫画編集者><漫画ファンたち>が、まだ現存しているのです。そして、それに群がる<業界関係者、業者たち>も……。
 
いがらしさんが最高裁まで争ってくれたことは、今にして思えば<原作者の仕事>が<確定>され、かえってありがたい事だったと思います。
そこまで<原作者は利用されるだけの存在>だと言い張ってくれたおかげで、その結論が出たのです。
漫画原作は<原著作>です。それはどちらが偉い存在ということではなく<物語の種>を植え付ける役目なのです。そういう<仕事>なのです。
漫画家諸氏がそういった法的判断に反発を感じるのならば、原作を使わず、オリジナルの作品のみを描くべきでしょう。
 
先輩作家たちは、今もどこかで<原作は利用されるだけ>という思いが残っているようです。
<原作者たち>の存在がもっと、もっと、認められますように。
そのためには、よい作品がたくさん生まれますように。
 
*****
 
わたしは、子供の物語が大好きです。
子供の本は、この世に生まれてはじめて出会う物語。
そんな、まだ、真っ白でぴかぴかの心を持つ純な子供たちに贈る物語を生み出す仕事は緊張しますが、ほんとうに、わくわくします。
<子供から少女、少年へ……>
みんな、どんな思いを抱いて成長していくのでしょうね。その<思い>を救い上げ描いていきたい。
最初はみんな、ぴかぴかの心だったのですね。
子供の頃にであった本はきっとその後の人生に少なからず影響する……そう信じていたことがこの事件で(やはりそうだったのね…)と感じ入りました。
これから先、わたしは、どのくらいお話を書いていけるでしょうか。
少しでも、今の子供たちに役に立つ物語を書きたい……
 
一作、一作、心を込めて、許される限り、書き続けますね。
それがこの<小窓>に集まってくださったみなさまへの恩返しとも思います。
 
小窓はいつも開いています。
中にはだれもいないかもしれませんが、この家のドアを開け、自由に入って、お茶でも飲んでいって下さい。
ポットにはプリンスエドワード島のストロベリーティをいれておきますね。
 
  
 
 
 
 
 
 
 

 
 小窓からの風のかがやき
ポルトガルのロタ岬の<天使のはしご>
(友人の侑子さんが送ってくれました)
 
 
風に名前があることを知ったのはいつだったでしょうか。
日常でも<春一番><木枯らし>などもう生活に染み込んだ名前がありますね。
<春の一番>があるなら<何番>まであるのかしら…と思ってあるとき調べたら<春四番>までで、桜が散るころの風だということです。
それから、
<桜の風コンチェルト 一番〜四番>…とピアノの音色で春風を楽しんでいます。
 
外国では<ミストラル>というきれいな名前が、おてんばな強風だと知ってから、さまざまなところで<風の名前>に心が向くようになりました。
映画<ヴェニスに死す>では<シロッコ>という風が耳に残りました。遠いサハラ砂漠の砂が舞いあがり、イタリアのヴェニスにまで旅してくるという風。
想像するだけでロマンチックな気分になってしまいますが、<風>はいいことばかりを運んでくる訳ではないようです。
 
以前、エジプトを旅した時、ガイドをしてくれたヒシャームさんから<ハムシン>という風のことを聞きました。(彼の素適なお名前は”久無”という名で、ある小説にお借りしてしまいました!)
「ハムシンの季節は街が黄色くかすむんだ」と、ヒシャームさんはなかなかの日本語で話してくれました。
「黄色の霧のように?……ステキね!」そういった わたしにヒシャームさんは首をふって、
「ハムシンのすごさを知らないね。黄色い砂の壁ができるくらいなんだから、もう何も見えない……砂の柱もできて生き物のように動くんだから」
ゴウゴウと砂の柱が動いて迫ってくる……想像するとそれもまた、ミステリアスに思えてしまいます。
その後、その砂の柱のことを、サハラでは<ワルツを踊る霊(ジン)>と呼んでいると聞いて、ますますロマンティック!ハムシンにあこがれる、なんていったらエジプトの民にあきれられるでしょうか。
 
風が好きです。
風の強い日には、外を歩きます。
風は突然起こり、その方向を変えて、また、突然、どこかに去っていきます。
プリンスエドワード島で過ごした夏。
毎日、風の音を聞いていました。
よく晴れた風の強い日、わたしは娘と古いブランケットを樹の下に持ち出し寝転んで、光速フイルムのように流れていく雲を見たり、フユィー、ゴウワーン、スララー、シュリリ、
と鳴る風の音を聞いて<音あて>などをして楽しんでいました。
ダイナミックに樹が揺れ、ギシギシ鳴るのもいい感じです。
そのとき、夫が窓辺に立ってわたしたちに手を振りました。
わたしたちもにこやかに、手を振り返します。
夫はまだ愛想よく手を振っています。
「手なんか振っていないで、こっちにくいればいいのにねえ」
娘とそう言い合っていたら、今度は夫が家から飛び出してきました。
「風で樹がもう折れそうじゃないか!危ないから、はやく家へ入れって合図したのに!」
………わたしたちは、あわててブランケットを抱え、家に入りました。
家の中からその樹を見ると……たしかに、体操の選手のようにしなやかに体をたわめています。
大丈夫、樹は折れませんでした。
 
風はすべてを運んできます。
うれしいことも、かなしいことも。
そして、風はみえません。でも、いつでも 感じることができます。
 
 
風に吹く風  
 
 
風は いい
どんな風も
私の心を
夕陽をあびた 穏やかな海にしてくれる
 
風が すきだ
けれど
風は こんなふうに
風に ふかれることがあるのだろうか
私を よみがえらせるように
 
風になろう
私が死んだら 風になろう
風のために 風だけのために
 
風に吹く風に
 
    
……詩集<思い出は歌わない>より
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 

   小窓にとまった風船
 
 
わたしにとっては長くつらい事件の日々でしたが、その月日のなかでほんとうにきらめくような素晴らしいこともたくさんありました。
ときには、この事件に感謝さえしてしまうことも…。
その一つが、このHPのおかげで何十年ぶりかに巡り合え、連絡をくださった方たち…。
その中にはかつて一緒に仕事をした”漫画家さんたち”もいました。
感激したのはその中のお一人がわたしの生原稿を大切に保管して下さっていたことです。
20年以上も前のこと。<いつかはお返ししなくてはと思っていました>と、その漫画家さんはメールをくださいました。
何回かのやりとりの末、帰ってきた生原稿はわたしが保管しているものよりはるかに保存状態がよくて感動してしまいました。20年以上の間にはその漫画家さんは引っ越されたかもしれない…。忘れずに思いを止めて下さったこと、なんともいいようのない幸福感でした。
 
そして…
最近、またなつかしい漫画家さんからお便りをいただきました。
ジンとしてしまったほどやさしい励ましのお言葉のなかに、わたしが<娘を誕生日に風船で飛ばしたい>と真剣に考えていたことを覚えていて下さった一文があったのです。
彼女のその文に触れたとたん、空いっぱいの風船が目に浮かんできました。
そうそう…
わたしは娘の誕生日に<風船で空を飛ばしてあげる>と約束した、かなりアブナイ母親だったのです。
 
風船が好きで、いつもたくさんの風船が家にあります。
なかでもずっとあこがれていたのはフワンと空に浮かぶ風船。お祭りなどで売っていますね。
そんな風船をお祭りやテーマパークで買ってもらえるのが子供のころ楽しみでした。
けれど、どんなに糸をしっかり握っていても、あっという間に風船は手元からはなれて空に飛び立ってしまいます。子供のころ、何回悲しい思いをしたことでしょう。
いまでも、風船を飛ばしてしまって泣いている子を見ると、駈け寄りたくなります。
あれは、ほんとうにがっかりするの……子供にとってはこの世の終わりくらいの悲しみ。
たいてい親は二つ目は買ってくれません。また、子供も手を離れていった風船がいいので、もうひとつ欲しいわけではないのです。
 
わたしの娘も、なんども風船を飛ばし、泣きました。
風船が飛んでいったくらいで、あんなに泣けるのは子供の時だけでしょう。
すてきな涙です。
その何回目かのときに、わたしは娘と約束したのです。
「今度のお誕生日に風船で空を飛ばせてあげるね!」
 
それから、わたしは理数系の友人に相談しました。娘をほんの少しでも飛ばせることができる風船の数は?
”Mr理数系”はたいへん真面目な方です。娘の体重からわりだして真剣に計算してくださいました。
「最低1500個はいります」と”Mr理数系”はいいました。
「 はいはい、1500個ですね。」
とノンキに答えると、
「1500個の風船は…・(としばらく計算して)四畳半いっぱいでも入りきらないでしょう」
「……」
「それだけの風船にいるヘリウムは……ボンベ30本くらい…」
わたしは、びっくりして「わかりました…無理だということは」とアワアワといいました。
”Mr理数系”は真剣に頷いて、わたしを諭しました。
「ならばよいです。だいたいお嬢さんがほんとうに飛んでいったらどうします?」
 
お祭り用のヘリウムボンベは100個くらいの風船ができるそうです。
「100個で我慢してね」と娘に言いました。
それから、そのボンベを貸してくれるところを捜して、やっと浅草橋で見つけたのです。
(今はヘリウムはパーティグッズ屋さんで手に入りますが、当時はたいへんだったの。)
夫があきれながらも<お祭り用ボンベと風船>一式を借りに車で出向いてくれました。
 
娘の誕生日には約束通り100個近い(大変かさばって100個は無理でした)風船をヘリウムで作りました。家の天井が風船で埋まりました。
(わたしは今でもお祭りで風船売りができる自信があります。)
娘や子供たちは好きな色の風船を持って近くの公園で、いっせいに飛ばしました。
灰色の曇り空に、赤、緑、青、黄色、ピンクの風船が飛んでいきます。
子供たちは飛び跳ねながらいつまでも見送っていました。
 
その後、今に至るまでわがやの必需品として風船とヘリウムボンベ(小さいものです)はあります。
環境汚染になると思うので、あんなにいっせいに風船をとばしたのは、あの日が最後でしたが、娘とふたり、その後もときどき空に飛ばしました。みんながよくやるように娘は風船に手紙をつけたこともありますが、返事は一度も返ってきません。
風船にマジックで顔を描いて名前をつけると、なんだかお友達になったようなのか、娘はベッドで風船と一緒に寝ていました。のぞいてみたら風船の方が大きな顔をしていたので吹き出してしまったことを思い出します。
 
……当時、そんな話を漫画家さんにしたのね。
 
娘はいまでも風船がすきです。
時たま、<風船おじさん>のことを話題にします。
何年も前に籠に風船をつけて、役所の人の制止を振り切り、飛んでいって行方不明になった<おじさん>のこと。わたしたちはずっと気にしているのです。週刊誌によると<おじさん>には借金があったようでした。
「おじさん、どうしているかな」と娘がいいます。
「今、どのへんを飛んでいるのかしらね……」とわたし。
 
わたしたちが飛ばした風船も…どこを旅しているでしょうか…。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
  虹色の小窓から
 
 
 
うちの窓辺にはいくつかのクリスタルが下がっています。
そのクリスタルに光が当たると辺りの壁や家具に虹色が散ってキラキラと輝きます。
その光はほんの束の間。太陽が移動してしまえば消えてしまう幻の虹の光。
春、夏、秋、冬、とそのクリスタルの虹は色合いも差し込む長さもまちまちで、冬の光が一番、鮮やかで部屋の奥の壁にくっきりと虹の色を描きます。そこに壁がなかったら、もっと奥まで差し込んでいるかもしれません。
その時間(午後三時頃)に壁近くのテーブルにすわっていると動かした手の先も虹の色に染まります。
「あだきみあおあいすみれ」
呪文のような言葉を知ったのはいつだったでしょうか。
虹の七色を示す言葉。
「赤、橙、黄色、緑、青、藍、菫」
ほんとうにその呪文の通りに色が並んでいます。
 
部屋の中の虹……
それを知ったのは<少女パレアナ>という少女小説の登場人物、頑固な老人の部屋に入ると(虹ができていた)といったシーンがあったからです。
その老人の部屋に置かれていた<プリズム>から流れた<虹>でした。
すっかりうらやましくなったわたしはさっそくプリズムを買ってもらって、窓辺に置きました。ところが……虹なんてできません。
そう、まだ幼く知識もなかったわたしはプリズムを置くだけで、年中虹の中にいられると思ったのね。
 
生まれてはじめて見た虹はたぶん、庭に水をまく時、母がホースで作った虹……
子供のころ、「虹のなか〜!」などと叫びながら、ホースの水をくぐりぬけました。
びしょぬれになりながらも、何回も。
 
それからわたしが出会った<本物の虹>は、いつもどこかが欠けていて
(残りの部分はどこに消えたの?)
と、神秘的でしたが、いつかほんとうの半円の虹をみてみたい、と思っていました。
その願いがかなったのはプリンスエドワード島です。
晴れているのに霧のような雨……<きつねの嫁入り>の天気雨が降り注ぐ日、<ささやきの入り江>でボートに乗っていました。
その日は、今までにないほど、何十羽というかもめが入り江を飛び交い空がほんのりと白く染まったか、と感じられるほどでした。
ふだん、かもめは通り過ぎることはあっても、ささやきの入り江までは遊びにきません。
かもめに(きょうは、どうしたの?)そう問いかけるように海の方をふりむいてわたしはあっと息を呑みました。
突然、虹がかかっていたのです。
明るい銀ねず色の空。飛び交うかもめの白い羽。そのむこうにひろがるパーフェクトな虹!
やわらかな絵筆に水彩絵の具をふくませてさっと空に一筆で描いたような虹……。
かもめのなき声さえ「虹だよ! 虹だよ!」と喜んでいるように聞こえます。
風がおこり、シャワーのような霧雨が頬にかかりました。
虹を見て泣きたくなったのは、その時が初めてでした。
 
虹を見つけると、きっと人々の心は弦になってそれぞれの音色を奏でるのでしょうか。
そのとき、虹がかかったことを知ったのは、道を走っていく子供たちの歓声でした。
「虹だぁ!」
そう叫びながら、家の前の道を子供が駆け抜けていきました。
わたしは、すぐに外に飛び出しました。
ほんとうに、青い空にくっきりと虹がかかっています。
残念ながら両端が切れていましたが、その色、形、虹色の水滴が空から霧になって舞い散ってくるようでした。
わたしは空を見上げながら、歩き出しました。
虹を見上げて、大通りまで来たときです。
わたしは胸の奥がキュンとするような、美しい場面に出会いました。
大通り――そこにいた人々がみんな立ち止まって空を仰いでいたのです。
それは、時が止まってしまったような不思議な光景でした。
道のあちこちで、ひとが立ち止まり、みんな空の虹を見上げている……どの顔もみんな
うっとりした笑顔でした。
(虹が時間を止めてしまったのね!)
わたしはしばらくの間、虹を見つめることも忘れて、その<絵画>のような時の止まったシーンを眺めていました。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
  ハート型の小窓から
 
 
 
バレンタインディが近くなると、あちこちの店にハート型の飾りがあふれ、街にチョコレートの香りが漂ってくるようです。
2月の凛とした寒さに赤いハートが映え、この季節、スカーレットのコートを着たくなります。(チョコをつまみたくなってくるステキな映画”ショコラ”でもヒロインが赤いマントを着ていましたね)
 
バレンタインディがどんな日か全く知らなかった小さな頃、ミセスMからいつもかわいいハートの箱に入ったチョコレートをプレゼントしてもらっていました。
ミセスMは昔アメリカで暮らしていた祖母の友人の姪でどこかの基地で通訳をしていたと記憶しています。
ミセスMはロサンゼルスに帰国するまで、わたしをとても可愛がってくださり、さまざまな心踊るおみやげをいつも持ってきてくれました。
わたしがどうしてこんなに”ハート”が好きなのか……その原点はミセスMのチョコレートの箱にあるような気がします。
真っ赤なハート型。ピンクのハート……チョコレートを食べたあと、その箱には宝物を入れていました。チョコレートの香りが染み込んだ箱は、開けるたびにいい香りがしました。
何十年前かにもらったその箱の一つを、なんとまだ持っているのです。
そのピンクの縁取りで花がらのハート型の箱にはチョコを包んでいるこげ茶のギザギザ紙に大切なボタンをボンボンのように入れていました。
今はその箱がボタンを入れるのには体力的に(?)限界なのでボタンだけ移しました。
(いつかまた心惹かれるボタンの話しもしたいな。)
 
そんなわけで、我が家はバレンタインでもないのに、”ハート”があふれています。
家族も友達もわたしのハート好きをよく知っているので、いろいろな情報やプレゼントを
くださるので、うちのハートはますますありがたいことに増えていきます。
20数年前、この家を改築したときも「窓をハート型にして」と言って夫と大工さんを困らせました。
純然たるハート型の窓は無理とのことで、洗面所だけ、窓の部分をハート型にくり貫いてもらいました。後は木戸や駐車場ののぞき窓をハート型(駐車場はあとはスペードにダイヤ、クローバーとトランプの形!)にくりぬいいていただきました。
(そのおかげで光によって、ハート型などの影が出きます)
 
玄関の鏡もね、ハート型に切ってもらいました。(うん、これも満足。)
玄関マットもハートです。
でも、うちでいちばんハートがあふれているのはキッチンなのです。
ハートの背もたれの赤い椅子(座り心地が悪いのでだれも座らない)
ハートの缶セット。
赤いハート型のポット。(ハートを横にした形になっていて使いにくい)
ハート型のカップとトレー。(飲みにくい)
ハートのガラスのお皿。
まな板もハート型。(使いにくいのでたまにしか使わないの)
 
しかし、なにより感嘆したハートは……なんと、”ハートのおたま”なのです。
その”ハートのおたま”を見つけた時はもう売り場で興奮してしまいました。
掬うところがハート型。しかもしっかりした作りです。
うれしくなって、その売り場にあった”ハートのおたま”を買い占めてしまいました。
そして、「 すぐれものをみつけた!」と友達にプレゼントしていたら自分のがなくなってしまったのです。(ところが!友人達は感謝するどころか「 使いにくい、お味噌汁がこぼれる」などと、厳しい批評を…)
もう一度、自分の分を買いにいったら、やはり実用的ではない(友人達の言う通り)のか、もう在庫もなく取り寄せもできない、といわれてしまいました。
しかし、こんなことであきらめるわたしではない!
製造元を聞き、遠い宮城県(だったと思いますが)まで電話しました。
製造元は「そんなに気に入っていただいたのは初めてです!」と、たいへん喜んでくれましたが、すでに売れなかったということで…ああ、生産中止になっていたのです。
それでも2つほど残っていたおたまを捜して下さり、譲っていただきました。
ひとつは自分に、もひとつはちゃんと<価値>のわかる友人に贈りました。
 
その後、どのメーカーも”ハートのおたま”は作らないようで大変残念です。
(”おたま”ついでにいうと、”くまの顔型のおたま”と”フライ返し”も使っていますがこれもすぐに生産中止になってしまいました。なんででしょう……つまらない。)
 
ハートの形……
心臓がこんなにかわいい形だと思うとうれしくなります。
いちばん大切なハートは、自分のなかにあるのね。
 
 
 
 
 
 

 
バレンタインディ
なんて すてきな響きでしょう!
好きな人に気持ちをこめて贈物をする日。
みんなの好きな人は
だれでしょう?
どんな相手でも 好きになる ってすてきね。
 
以前書いた拙作のポエム(おとなのバレンタインディかな)を
贈ります。
みなさま、よい日を……
 
 
* *********************
 
バレンタインディ
 
 
電車の窓から
いつも見かける
板チョコ の形をした マンション
 
あの マンションのいちばん上
右はしの 四角い窓に
結婚した あなた が
住んでいるような気がして
 
晴れた日には ベランダから
色とりどりの おふとん
 ストロベリーに レモン
 パイナップル
とけかかった 板チョコの なかみ
 
あの部屋で きっと
あなたは 幸福に暮らしているのね
 
セント バレンタインディ――
いちばん 好きな人には 
あげられなかった
 
夕闇
板チョコの窓に 灯りがともって
あなたの 幸福を確認する
わたしの 幸福な一瞬が
目のはしを 通りすぎていく
 
 
 
 
 

  寒月の小窓から
 
2002年、新しい年がペガサスのようにやってきました。
みなさまにとっても、よい日々がめぐりますように…。
 
午年……この<午>という字は<牛>とよく間違えてしまいます。ツノが出ていないのが<うま午>ですね。
わたしは牛も大好きですが、もちろん、馬も大好きなのです。
どちらかというと、馬との方がおつきあい(!)が長いかもしれません。
<乗馬服>が大好きでそれに似た服を作ってもらって着ていました。赤いタータンに黒い衿、キュロットにロングブーツ。その服を着ると、身も心も引き締まるような気がしました。
本当に<乗馬>を習い始めたのは10代の終わり頃。
毎週、日曜日早起きして<乗馬スクール>に通っていました。
レッスンは狭い馬場を回るだけです。初心者なので馬にまたがっているだけで精一杯でしたが、それでも、一段高い馬の背でゆっくりと風をうけているとのびやかないい気持ちでした。
時折、馬がぶるるん!と首を振ります。馬の匂い、そっと触れると暖かくやわらかい馬の首…。そんなわたしに、
「品よく!、背筋を伸ばして!」教官の声が飛んできます。
わたしの目標は<風を切って馬で駆け回ること>でしたが、<障害>がメインの乗馬スクールではそこでも、わたしは劣等生でした。
馬といっしょに<障害>を越えることになんの興味も持てなかったのです。
そろそろクラスも進級して、馬の世話の仕方も教えてもらえることになりました。
その時です。
わたしは<鞍>をはずした馬の背をじっくりと見てしまったのです。
その馬の背の皮はむけ、赤く血がにじんでいました。
(あの背中に乗っていたの!)わたしは自分自身の無神経さに愕然としました。
鞍だけでも何十キロもあるのです。その上にまたわたしを乗せて……
今まで、なんで気がつかなかったのでしょう。
重くて、痛かったのでしょうね。そんな思いをして馬は人を乗せ走ってきたのです。
山を、高地を、戦場を―――。
その日から、わたしは乗馬スクールをやめました。
 
馬にまたがって野を走る……
そんなチャンスはもうないのでは、と思っていたのに、それから数年後、網走で夢がかなったのです!
母が亡くなってひとりになったわたしは、よくふらりとひとり旅にでました。
その夏のある日も、わたしは網走のユースホステルにたどり着いていました。
ところが、耐え難い匂いがそのユースの部屋に漂っていたのです。
目と鼻が痛くなるような強烈な匂い。聞くと<殺虫剤>をまいたのだとユースのおばさんがいいました。不思議なことにそのおばさんや同室の女性は「あまり感じない」と首をかしげるのです。しばらく我慢していましたが、だんだん頭が痛くなってきてわたしは宿をかえることを決心しました。
そのとたん、網走の駅でみた<どさんこ牧場>というはげた小さな看板を思い出したのです。ユースのおばさんにキャンセルのお詫びをいって、わたしは網走の駅に戻り、看板に書いてあった電話番号に連絡しました。
電話に出たおじさんが迎えに行く、といってくれたので駅で待っていたらしばらく後、汚れたワゴン車が到着しました。ワゴンの車体には<どさんこ馬にものれる民宿>といったような事が書いてあって、とたん、わたしの胸は期待でふくらんできました。
<どさんこ牧場>のおじさんは、おじいさんとおじさんの境目のような感じで、<とってもいい人>と顔に書いてあるようでした。
その古い農家の<どさんこ牧場>でお客は、わたしひとりでした。
 
翌日、「すきなだけ”どさんこ”に乗るがいい」といってくれたおじさんについて、近くの林に向かいました。林の奥、澄んだ池のほとりの掘っ建て小屋には”どさんこ馬”が数頭つながれていました。
前の晩、網走の歴史とどさんこ馬について、おじさんから講義を受けていたので、<どさんこ>がどんなに北海道の開拓に役立ち、おじさんにとっても大切な仲間だと分かっていました。そんな仲間に乗せていただけるのです。足が太く、がっちりしたたくましいどさんこ馬ならば少しぐらい乗っても痛くもなんともない気がしました。
でも、どこを見ても<鞍>もありません。
おじさんは、灰色の馬を小屋から出し、ついでにごてごてによごれた座布団も手にしています。
まさか、と思ったわたしの不安は的中しました。
鞍のかわりに<その座布団>を馬の背に乗せて乗れ、というのです。馬には即席のロープの手綱がつけられました。
馬に乗っかり、両膝で馬のお腹をおさえていれば大丈夫、とおじさんはさわやかに笑います。
「なんどか落っこちてれば、うまくなるさあ。痛くねえよ、草だから」とかいっておじさんは去っていきました。
 
ほんとうに、わたしは何度も落ちました。
なにせ<座布団の鞍>なのです。座布団といっしょにずり落ちてしまいます。
そのたびに、”どさんこ馬”が心配そうにわたしを見下ろしています。
つぶらな、やさしい瞳で……
そう、おじさんが予言(?)したように、だんだんわたしは落ちなくなり、「うまく」なってしまったのです。
 
ほんとうは、網走からもっと奥に旅する予定でした。
けれど、わたしはおじさんの民宿で、毎日,どさんこ馬に乗って過ごしました。
どさんこ馬のたてがみをつかみ(手綱より確かなので)、また、ある時はその太い首に抱きついて、わたしは池のほとりを全速力で走ります。
風を切って…・!
あきると、するりと座布団ごと降りて、馬と並んで休息しました。
樹と緑と風の匂い……
ある日、馬を降りると、池のほとりにしゃがんでたばこを吸いながら見学していたおじさんが、
「うまくなったもんだあ」
と目を細め、満足そうにうなずいていました。
 
そうやっていつまでもどさんこ馬に乗っていたかったけれど、そうもいきません。
東京に戻る予定は過ぎていました。
帰らなくてはならない、と告げると、無口なおばさんなのに
「いつまでいたっていいんだよ」といってくれ、
おじさんも、
「次の休みにゃ、馬場(ばんば)に連れてってやろうと思っていたに」と
残念がってくれました。
わたしは胸がいっぱいになって、一瞬、ここで暮らしてもいいかな、と思ったくらいです。しかし……残してきた仕事もありました。
やはりもう帰らなくてはならないのでした。
夏も終わろうとしていました。
 
それから……
何度もリゾート地で馬に乗る機会はありました。
けれど、あのとき、あの夏のような<乗馬>はもう二度とできない、と思います。
馬に乗るしあわせのすべてを味わいました。
 
どこかで野生の馬にであったら、まず、話しかけて仲良くなり、そう…クッションになる何かがあれば、もうその馬にまたがって荒野を走っていけるのです。
きっと……。
 
 
 

 
 
 
  いろいろあった2001年の中で、ほほえましくもうれしいニュースは、このプリンスエドワード島から届いた<腹巻き 子牛の誕生!>でした。
こんなことってあるのかしら!?
飛んで会いに行きたい気持ちをよくわかってくれているMarkとTerryが写真を送ってくれました。(<腹巻き牛>については、うんと下の方の小窓に書いたので、残っていると思います。)
わたしは牛が好きです。特にこのごろ哀しくなるほど<ひどい名前の牛の病気(もっと別の名前にならないかしら・・)>の報道を聞くたびに胸が痛みます。
病気は牛のせいではありません……。
この世の牛たちが、新しい年はのんびりとその生をすごせますように。
 
いつも、ほんとうに言葉にはつくせないほどの<贈物>をいただいているみなさまに…
ささやかですが、写真の贈物…
よい日をね!
 
Merry Christmas ♪:^^:♪
            
 
 
 
         
      
 

         
      
 
 
   ドールハウスの小窓の灯り
 
 
クリスマスが近くなると屋根裏からさまざまなクリスマスの飾り付けを出します。
木製のサンタクロースの椅子、ゆきだるまのイルミネーション、ろうそくを立てると風車がまわるキャンドルスタンド、クリスマスの食器、そして、2年前登場した真っ白いクリスマスツリー。
それまで我が家のツリーは、娘が生まれた年に買ったモミの木にオーナメントを飾っていました。その娘のモミの木はだんだん大きくなって、そのつど植木鉢を広げてきましたが、ワインの樽のような特大の木の鉢を最後にもう家のなかには入れられないほど成長してしまいました。娘よりずっとのっぽになったモミの樹は今後は庭でもっともっと大きくなっていくのでしょうね。それも楽しみです。
 
そして……
今年はもう何年ぶりかで部屋の隅で誇りをかぶっていた<ドールハウス>の大掃除をしました。
ドールハウス……小さい頃から人形の家が大好きでプレゼントしてもらった小さな人形の家をいつまでも大切にしていました。
大人になって本物のドールハウスを雑誌の写真で見た時の感激!
各部屋には小さな家具、キッチンにはミニチュアのお鍋や食器までそろっているのです!
写真で見るだけでも楽しくなってくるようなドールハウス……
その実物をはじめてみたのは何十年も前、渋谷の街の片隅でした。
やはり、それも見るだけ。びっくりするくらい高額だったのです。
 
あこがれのドールハウスとの運命的な出会い(?)をしたのはカナダのハリファックスという街です。
大雨でどこにも出かけられず、ホテルの近くを当時小さかった娘と散策していたわたしはウインドウにヴィクトリア風の建物のドールハウスを見つけその店に吸い込まれていました。
その店はドールハウスの専門店でした。
ミニチュアの家具もたくさん、ドールハウス用の壁紙までありました。
わたしは感激と興奮でほとんど息もできないくらいでした。
聞けば、キッドを購入して組み立て、好みのペンキを塗り、また壁紙を張ったり電気を通して灯りをつけたり……それが<大人>のドールハウスの楽しみ方なのだそうです。
そういえば、友人がアメリカに行った時、その家のおばあちゃまが楽しそうにドールハウスのベットカバーのパッチワークを縫っていたと聞き、それだけでわくわくしたことを思い出しました。
大きなヴィクトリア風のドールハウス…なんと!値段はわたしが想像していた額の四分の一でした!
すぐにホテルの部屋にいた夫を引っ張って来て、(どうしても欲しい!)とお願いしたのです。夫は「大きいなあ(畳半分はある!)これ、だれが組み立てるの?」と笑いながらも船便で送ってもらう手続きをしてくれました。
 
そのドールハウスが家に届いたのは、それから4ヶ後でした。
夫はすぐに組み立ててくれ、わたしはその大きな二階建て屋根裏付きドールハウスの仮の主(ほんとう主は人形だから)になったのです。
それからは、まるでそのドールハウスが魔法をかけてくれたように、出かける先々でミニチュアの家具に出会いました。
応接セット、ダイニングセット、バスルームセット、ピアノ、そして、枕元に置く小さな小さな聖書までみつけたときは売り場で思わず笑ってしまいました。
 
明子さんと知り合ったのも、たまたま近くで開かれた彼女のミニチュアの展示会でした。
好奇心旺盛でセンスのよい明子さんとはたちまち仲良くなりました。
明子さんが作った<甲冑>を我がドールハウスの暖炉の横に置きたいので、できることなら譲って欲しいと、声をかけたのです。
その後、わが<ドールハウス>を明子さんが訪ねて下さった時(甲冑はそのときの”おみやげ”にいただいてしまいました!)いろいろなミニチュアの家の事など話していて
「なにもない和室があったらすてき」とお願いしました。
「その和室にお正月のおもちやおひなさまを飾るの!」
明子さんはおもしろがって、すぐに本物の畳を敷いた<和室>をつくってくれました。
わたしはその和室に、<万乃丞はお留守>という名前をつけました。
 
<万乃丞はお留守>はその後、今に至るまで何年も新年に箱から出されて、それも明子さんが作った<三段重(いくらがビーズよ!)>等で飾られ、二月はおこたとみかんと節分セット、三月は小さなひな壇(すべて明子作)でまた、箱にしまわれます。
当主の<万乃丞>はずっとお留守のまま……。
明子さんは今や和風ドールハウスの一人者で、本まで出版されたほどです。
(うちの<万ちゃんの部屋も(!)>グラビアを飾った事があるの)
 
さて、ほこりだらけのわがドールハウスは、屋根の色も決まらず、壁紙も張られず、むくのままです。家の主も<人形の家族>を捜しているうちに、そのままになってしまいました。ほんとうに長い事ほっておいてすまないことをしました。
今年はそのドアに小さなクリスマスリースを飾り、アダプターつきのライトを部屋にともすつもりです。
 
みなさまも、よいクリスマス、よいお年をね!
 
 
 
         
      

 
         
      
 
     小窓からの落葉のささやき
 
         
      
10月25日、待ちに待った最高裁の判決が下りました。
地裁、高裁と同じ<原著作者>と確定しました。
これは25年前と何も変わりません。
けれど、法的に確定したことでわたしは<新しい扉>のカギをいただいたような気がしています。
 
この事件はわたしにとって切ないことの連続でしたが、思いもかけない贈物をたくさんいただきました。そのひとつひとつについてはこのホームページを閉じる時に記しておこうと思っています。
なにより自分自身、驚愕し意外だったのは<キャンディの新作>を書いてもいいかな、と思い始めたことでした。
これは事件前には全く想像もつかないことでした。
 
<新キャンディ>の話題は、いがらしさんの暴走はだれにも止められないのだ、と諦めはじめた頃、東映アニメからそれとなく生まれていました。
つまり、いがらしさんの絵ではない新しいキャンディを模索できない、かと。
しかし、そのことについては<水木がいがらしさんの絵と訣別出来るか否か>にかかっていたようで東映からのその話題もたいへん遠慮がちでした。
わたしがはっきりといがらしさんの絵と<訣別>できた時、東映アニメは<続編>を書くのだと思われたようです。
 
わたしは「続編は書きません」とお答えしました。
そう……わたしはなんといっても、いがらしゆみこ氏と一緒に創りあげた<キャンディ・キャンディ>という作品は大切にしたかったのです。
<キャンディス・W・アードレー>は特に漫画の絵においては<あの少女一人>と思っています。
多くのファンに愛されたキャンディはいがらしさんの絵柄から生まれたのです。
続編を新しい絵柄で書いてもかつてのファンには違和感が生まれる事でしょう。
ファンの気持ちを考えると、いかなることがあってもいがらしさんのキャンディの絵柄は
大切にしなくてはと思いました。
 
「続編は書けません。けれど、キャンディの世界をふまえた新しいキャンディの物語ならば書けます」と答えました。
新しいキャンディの物語とは……
<新しい主人公>を縦糸に、そして<キャンディス・W・アードレー>を横糸に織り成す物語。
昔の読者も楽しめ、新しい読者も楽しめる……そんな物語でないといけないと思ったのです。
そして、もしその物語が成功すれば新旧ともに生きることになる…みんなを傷つけない、そうも思いました。
 
けれど、東映アニメと企画していたその物語を、わたしは途中で白紙に戻しました。
話を進めながらずっと感じていた違和感……。
 
<わたしは なんのために 書くのか>
 
その根本に立ち戻りたい、と思ったのです。
旧キャンディの原作を書いたときも、<なにかに突き動かされる>…そんな感じでした。
濁りのない気持ち。
そういった気持ちに立ち戻れない限り書いてはいけない、と思ったのです。
 
<だれのためでも、なんの目的もない。書きたいから書く!>
そうでなけければ、物語の登場人物に申しわけがたちません。
わたしの物語はつたないものですが、ふーこも和夫もマキもマキトも絵亜も衆介も(今書いてる主人公)、みんなそういった気持ちから生まれてきたのです。
 
<新キャンディ>の物語は曇りのない気持ちから生み出したいと思っています。
漫画化やアニメ化の予定など考慮せず、
ただ…
書きたい物語を書く!
<小説>として生み出したいと思っています。
その作品の出来がもしよければ、何かの形になるでしょう。
 
いがらしさんは<いちゃもん(言葉が悪いですがぴったりなので)>をつけてくるかもしれません。
法的には確立しているので新作を書くことにはなんの問題もありませんが、トラブルを避けたい出版社はその(本)の出版を避けるかもしれません。
すべて<新作>が読み応えがあるか否かにかかっていると思います。
わたしは<新作>は気骨のある出版社、編集者と仕事がしたいと願っています。
 
今回の事件では多くの読者を哀しませてしまいました。
その物語を書く事で何らかの贖罪になるのでしょうか……
わたしには、まだわかりません。
 
しかし、物語の種はどんどんふくらんでいきます。
 
何十年後の新しい<ポニーの家>
そこはだれが建てたのでしょう?
そこにはだれがいて、どんな物語が生まれてくるのでしょう……
 
もしかして
いつの日か、きっと……
 
 

 
 
 
 
 
   小窓からの月の光
 
 
秋の月はいったい誰が磨くのでしょう。
一年中、どの月も<お月さま>は美しいけれど、なんといっても九月から十月にかけての月の輝きには奇跡を起こす力さえ感じられます。
 
まだ幼かった娘と一緒に<満月の夜の散歩>に行こうと思ったのは何年も前のことです。
満月…・フルムーン…。
誰にでも、おしみなく降り注いでくれる月の光。
満月は月に一回。そんな宇宙からの<贈物>を受け取らないでいるなんてもったいないこと。そう、今年から、一年間の満月を巡り歩きましょう…。
その年のはじめ、
「毎月これから満月の夜、散歩にいこうね」
誘ってみると、娘は目を輝かせました。
「夜、お散歩するの?!」
散歩は昼間するもの、と思っていただけに娘は驚き、(なにがあるんだろう)とワクワクしたようでした。
カレンダーに満月の日のマークをつけ、一月から<満月の夜の散歩>が始りました。
 
<満月の夜>には何が待っていたでしょう。
確かに<満月>には奇跡が起きるのかもしれません。毎月の散歩の時、ささいなことでも何かが起こりました。うちの周囲を回って帰ってくるだけなのに、ねこの集会に出会ったり、満月と同じ色、黄色いボールがわたし達を待っていたように転がっていたり……ここには書ききれないくらいです。
満月は一年間に十二回から年によっては十三回。でも、天気の様子で<お月さま>が見られない月もあるので満足に見られるのは年間、八回から九回くらいでしょうか。
 
ある年の九月の満月の夜、あまりにまぶしく明るい月の光に<夜のピクニック>に行くことにしました。娘の友達を誘うと、母親共々大喜びで参加してくれることになり、わたしたちは月が高くあがったころお弁当を持って<秘密の丘>めざしてでかけました。
<秘密の丘>は急な崖の途中にあります。
足元が心配でしたが、月明かりのおかげでまるで白いスポットライトに照らされているようでした。
月明かりをあびて食べるお弁当は、特別の味がしました。
子供たちもはしゃぎ声。木々のシルエットが揺れ、満月がゆっくりと動いていきます。
ふと、丘の下方に建つマンションの灯かりが目に入りました。
真っ暗な窓、カーテンの色が窓に映っている窓など月明かりに浮かび上がったマンションはまるで大きなキルトの布を夜空にかけているように見えました。
中に窓を開けたままの部屋があって、ブルーの色が流れています。
それはテレビの光だとすぐにわかりました。
「おじさんがいる!」とその窓をみながら、子供たちがいい、
「おじさんが動いた!」とまた歓声をあげました。
わたしたちも子供たちと笑ってその窓の様子を見ていましたが、そのうちこれでは<お月見>ではなく<のぞき見>になってしまうとそろそろ帰ることにしました。
帰り道、<お月さま>がなんだかからかうようにわたしたちの後をついてきました。
 
何年か続いた満月の夜の散歩もいつのまにか不定期になり、このごろはお休みすることが多くなりました。
それでも、毎年<月齢カレンダー>を壁にかけて<今月の満月>についてはいつも気にしています。
娘も同じなのか、「今夜は満月よ、みた?」と日がくれて、帰ってくるなりそういったときは、なんだかとってもうれしい気持ちでした。
月や陽射しや風……この世のだれにでも分けへだてなく与えられる贈物を<友>と思って生きていければ、どんなときも<ひとり>にはならないと思えるからです。
わたし自身、そんな森羅万象にどんなに励まされてきたでしょう。
月は決して裏切らない永遠にそばにいてくれる仲間のひとりなのですね。
 
九月の満月はもうすぎてしまいましたが、十月の満月は、二日の<22時49分>が<本物の満月>になる時間ですって!
今年の十月は<集いの月>です。
十五夜(中秋の名月)は十月の一日。
十三夜は十月二十九日。
十五夜だけ眺めて、十三夜を眺めないのは<片月見>というそうです。
 
<秘密の丘>にはもうススキがたくさん揺れています。
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
  小窓からの夏の光
 
          夏の夕暮
 
 
どの季節もみんな好き、というと、気が多いね、と笑われます。
でも、そうなのです。
冬は冬らしくうんと寒いのが、夏は夏らしく溶けそうに暑いのが――――
暑い暑い夏の昼下がり、人気の無い商店街に買物にいくと、もう20年来おなじみの八百屋のおかあさんが「こんな日だから出てくると思った」と笑います。
大雨や大雪、極端な天候でだれも買物に出てこないような日にのこのこ出かけてくることを商店の人たちはよく知ってくれているのです。
八百屋のおかあさんは「元気つけなさいよ」と5年物の梅酒の梅をくれたりします。
スーパーに押されて、そういったささやかなおつきあいができる商店が減ってきているのがとても寂しい。わたしが住んでいる町はお年寄りが多いので、八百屋さんやお肉屋さんが配達のとき、頼まれてシャンプーなども買って届けたりします。
 
クーラーが苦手なので、窓という窓を開いて風を招きいれます。
汗をかくという現象がとても不思議で好きなのです。
身体のなかに泉がわいているのね。
 
暑い日、何度も洗濯をして、シーツやタオルケットが見る見るうちに乾いていくのを感心してながめます。
洗濯物をとりこんだときの、なんともいえないいい匂い。夏のおひさまと緑の匂い。
 
日中、葉が焼けてしまいそうな鉢植えのペチュニアを日陰に移したり、たいした用事もないのに外に出て(暑い!)とつぶやいたりするのが、なんとも楽しいのです。
夏の花は真っ青な空に似合うような色が多いですね。
向日葵やポンポンダリヤの黄色。夾竹桃や百日紅の赤。
そして、白いオシロイバナ。
英語でオシロイバナが<フォー オ クロック、午後4時>という名前だと聞いたときなんだかうれしくなりました。
そう……オシロイバナは<午後4時>ごろに花開きます。
幼い頃、遊び疲れて、あるいは長いお昼寝から目覚めた けうとい眼差しに庭のオシロイバナの白い色がにじむように広がってきて……
それはたいてい午後4時ごろ――その刻、花開くオシロイバナは夕闇に物思いにふけっているようにひっそりと浮かんでいます。
<午後4時の白粉(おしろい)>。
オシロイバナの黒い種を割ると白い粉が入っていて、それを顔にぬって遊ぶおんなの子。日本の名前はそこからついたのでしょうね。
 
ゆっくりと夏の日が落ちていって、澄み切った光がいっそう透明になり空全体にかき氷の<ブルーハワイ>の色が溶けていく感じ―――――。
自分自身までその淡い色に溶けてしまいそうな夕暮。
とてもなつかしい大切なものがその夏の夕暮につまっているような気がします。
 
……<できるなら 夏の日の夕暮に死にたい>
と、詩に書いたのは、わたしの詩の恩師ともいえる詩人の菅原克己先生です。
菅原先生はプロレタリアートの詩人とみなされているよですが、わたしが菅原先生を知ったのは<高校文芸>という雑誌の詩の投稿欄でした。
菅原先生は、わたしの詩を気に入ってくださり、その後、先生の<詩の会>に入ることになりました。
……「詩も文章も、誰にでもわかる言葉で書くこと」
菅原先生はそういつもいっていらっしゃいました。
わたしは20歳の記念に<還る>という詩集を自費出版しました。
晴れ着の代わりに母親に資金援助をしてもらったのです。
<還る(かえる)>というタイトルは、自作の詩
……  わたし 還る
    白いベルトコンベアーに乗って
     雪の積もった道を  ひとりで……
というフレーズから取ったのですが、その詩は載せていません。
詩集<還る>の<序文>も菅原先生が書いてくださいました。
 
それから五年後、その詩集からひろがって<思い出は歌わない>(サンリオ出版)が出版されました。
わたしはそれ以後、長いこと<詩>を書かなく―――書けなくなります。
<詩とメルヘン>や雑誌に依頼されて書くことはありましたが、それまでのようになんのあてもなく、心からあふれるままに……書く事はなくなりました。
わたしが少女小説や漫画の原作を書くことについて、菅原先生はなにもおっしゃいませんでしたが、ある時、わたしの詩を読んでから遠くの方をみやって、
「……以前のきみの詩はこんなにしゃべらなかったなあ」
と、先生独特のゆっくりとした仙人のような口調でいわれたのす。
それは、先生らしいお叱りのそして、嘆きの言葉だと思いました。
<詩は簡潔に>
心からあふれる言葉には<説明>はいらないから―――
 
(わたしの詩を書く言葉は<原稿料>というものと引き換えられ、純粋さを失ったのだ…)
と哀しくなり、わたしはその時から、詩を書くことがおそろしくなったのです。
いつかまた、なんのてらいも無く、こころのままにあふれるよう詩を書けるだろうか。
いつもそう思っていました。
 
そして、菅原先生が亡くなられた後、詩人の友人からのお誘いもあって詩の同人に入ることにしました。それから18年余り、年に数回、心のままに書いた詩を同人誌に発表しています。
 
今のわたしの詩は、きっとあのころよりもっとおしゃべりになっているでしょう。
先生が読んで下さったら、きっと苦笑いなさりながら
「それでも、今、書かないと、書き続けないと」
そういわれるような気がします。
   
菅原克己先生は、夏の夕暮ではなく三月、れんげの季節に亡くなりました。
それでも、わたしは<すばらしく透明な夏の夕暮>を<菅原先生の日>としています。
 
詩はだれでも 書ける。
美しいものを見たとき、
哀しいとき
感じたことを
そのまま 言葉にのせて書くだけでいい
うまく書こうとか
感動させようとか 思わずに
ただ、こころのままに……
 
 
 
 
 
 

 
    小窓からの雨の雫
 
          うすむらさきの子馬
 
 
 
『 六月は
うすむらさきの 子馬
いぶし銀の空から 駆けおりてくる……  』
 
友人から、<六月>になると、わたしが若いころ書いたこの詩を口ずさむ、という便りが届きました。
 
雨が好きなので、梅雨もすき、というと北海道生まれの夫は「勘弁してくれ」と笑います。
北海道には梅雨がないんですって。
雨の日にお気に入りの傘をさして歩くことが好き。
けれど、雨ばかりつづくとさすがに青い空が恋しくなってきて、そして、ほんとうに青空がみえたときの いきなり天に場面転換された喜び……季節はほんとうにさまざまな楽しみを贈ってくれるのですね。
 
傘が好きなので、長年の間に驚くほどたまってしまいました。
番傘に蛇の目傘、絵日傘___和風の傘から洋傘にパラソルまで……一本一本に思い出があります。
 
高校時代、わたしはずっと番傘をさして学校にいっていました。
祖母と旅した温泉旅館に備え付けの番傘があったのです。
雨の温泉地。番傘におちる雨の音にいたく感動したわたしに祖母がわざわざ買って来てくれました。
高校の制服に番傘は似合っていたかしら____。
人の目など気にしないわたしは、自分一人の世界に浸っていました。
なにもいわずに笑って見ていてくれた友人達に今になって感謝しています。
学校が嫌いな、かなり困った高校生でした。
あれから、何本目かの番傘______今は<傘の家族>が増えすぎて、なかなか出番が回ってこないので寂しがっているかもしれません。
 
20数年前にフランスで目が合ってしまった傘もさびしい思いをしているでしょうか。
<真鍮の鳥の顔>の傘の柄。黒にブルーの花柄、ペチコートのようにブルーの薄い布が二重張りになっています。
あまりにステキでその傘を抱えて帰りました。
小雨の、ほんとうにささやくような小雨の日にそっとさして出かけていました。
その日も、小雨。歩いているうちに雨はあがって、街でタクシーに乗りました。
そんなに大切に思っていたのに、なんという わたし!
年中ぼんやりしているわたしは、タクシーの中にその傘を忘れてしまったのです。すぐ気がついたけれど、タクシーはもう走り去っていました。かすかにタクシー会社の名前が車のてっぺんに見えました。
わたしは、すぐにタクシー会社に電話をかけ、忘れ物をしたことを告げました。
 
そのタクシーの運転手さんから電話を頂いたのはその夜のことです。
傘は無事でした。
わたしがタクシーの営業所まで取りに行きます、というと、「明日オフでお宅の近くの友達に会いにいくから届けてあげる」と運転手さんがいわれるのです。(住所は忘れの物届けのとき、タクシーの営業所に話してありました。)
翌日、自家用車でその運転手さんと御友達が傘を届けにきてくれました。
何度もお礼をいうわたしに、運転手さんは、
「こんなきれいな傘、生まれて初めてみたよ」
そういって笑いました。
わたしは自分の子供が誉められたようにうれしくて、運転手さんにその傘を開いて見せました。
それから___なんだか心配でその傘をさしていません。
 
雨の日、人々がいろいろな傘をさしているのを見ることも好きです。
電車の窓から、ティルームのガラス張りの窓から、行き交う人々の傘を眺めます。
傘をさす人たちは、うつむきかげんで考え深げに見えます。
特に、花柄やカラフルな傘に映えた女の人の横顔は美しい……
 
レインツリィー、という<雨乞い>の楽器を知っていますか?
サボテンの中に<砂>が入っていると聞きました。
上下に振ると、シャラシャラ……なんともいえない美しい音がします。
娘が小さいころ「何の音に聞こえる?」と尋ねたら「お星さま」と答えました。
雨とお星さまの音はどこか通じるのですね。
雨乞いに使うのよ、と話して、毎日、レインツリィーを聞いていました。
そんなある夜、シャラシャラとレインツリィーを鳴らしていたら、
「ああっ、きょうはレインツリィーだめ!」
といきなり叫び声をあげ、わたしもあわてて止めました。
そう、明日は<運動会>だったのです。
 
翌日は、雨……
「雨乞いなんてするから…」
と、娘はまるでわたしのせいで運動会が延期になったようにいいました。
ほんとうに、レインツリィーひとつで雨を呼んだり、止めたりできたらいいのだけれど。
 
これを書いている今日もチェロの音色が似合う雨が降っています。
 
『   ……あじさいの雨の中を
       駆けめぐる 子馬が
         いつか かえってゆくとき
          その首の
           銀の鈴を  落とす
             それは きっと
                夏の扉の かぎ      』
 
 
 
 
 

 
    
    緑風の小窓から
           今も太古の風が…・
 
 
今月は……<爬虫類>が苦手な方は、ごめんなさいね。
インドネシアのコモド島に<コモドドラゴン>を見にいったときのお話です。
(文末にそのときの写真をUPしてありますから苦手な方、心の準備を、ね)
 
…という、わたしも子供のころ<爬虫類>は苦手でした。けれど、嫌いではなかったのかもしれません。庭先で小さなヤモリを見つけると、飽きずに動きを眺めていたのですから。
今でも、蛇は苦手ですが、その風体だけで嫌うのはなんだか申し訳なく思っています。
 
そんなわたしが<恐竜好き>になったのは、娘のおかげなのです。
娘が4歳ころ、わたしは毎日小学生新聞に<丘の上のオカルト屋敷>という話を連載していました。話の内容は、どうしても家がほしかった肝っ魂かあさん一家が<おばけがうじゃうじゃいる>とわかっていながら(おばけなんてぜったい追い出してやるわ!)という意気込みで、その家を格安で手に入れるのです。しかし、おばけたちもおとなしくはしていません。
冷蔵庫を開ければ、おいらん言葉の雪女がでてくるし、おふろにはカッパ小僧がいるし…と、書いていて楽しくて、恐竜はおばけではないのに<恐竜大百科>まで資料として買ってしまいました。
その大百科のティラノザウルスの表紙をのぞきこんだ娘が、
「これ、こわ〜い!」といったのです。
とっさに、わたしは(これで娘に嫌われたら恐竜たちに申し訳がたたない、と思ったのかどうか??
「こわい?……う~ん、ちょっとこわいかもね……でも、ほんとはかわいいのよ!」
などといって、恐竜百科を娘と一緒にめくりながら、ここもかわいい、あそこもかわいい、と最初はかなり無理をして説明していたら、あら、あら、不思議!
ほんとうに、かわいく見えてきたではありませんか!
その日をさかいに、単純なわたしと娘は<恐竜大好き!>に変身してしまったのです。
幼い娘はさすがの記憶力でほとんどの恐竜の顔と名前をあっという間に覚えてしまいました。
そして、わたしたちは数年後、夏のカナダ旅行の際、足を伸ばして、今でも<恐竜の骨がジャカスカ(?)出てくるという、アルバータ州の<ティレルの恐竜ミュージアム>にまで行ってしまったのです。
カルガリーから夫の運転するレンターカーでティレルをめざし、どこまでも続く麦畑の一本道をひたすら走りました。すれ違う車もそうはありません。行けども行けども麦畑。そのなかにポツンと建っている農家。秋にはこの道は黄金色の麦の穂の洪水……想像するだけでドキドキします。
 
2時間ほど走った後、突然、ほんとうに、突然、目指していた地平線を越えたとたん、麦畑がと切れ__むき出しの<子豚のお腹色>の大地が急に変身をとげたように広がってきました。砂漠、というには砂がなく、岩肌というにはやわらかすぎる感じの大地____。
太古の昔、このあたりを恐竜たち、トリケラトプス、パキケファロサウルス、ステゴサウルスなどが闊歩していたことが信じられる景色!
ティレルの恐竜ミュージアムは、そんな風景のなかに溶け込んでいました。
周囲の広大な大地では数人の研究者たちがゆっくりとした動作で発掘を行なっていました。
ミュージアムの展示物よりも、わたしたちは<恐竜がそこにいた>事実に圧倒されていました。外で風に吹かれ、空を見上げ、
(もしかしてこの風は太古と同じ?…空は…?)と思いをはせるだけで感激してしまったのです。
 
そして____コモドドラゴン!
その後、
「いつか、生きた恐竜をみたいね!」と娘と話していた時、コモド島へのツアーを発見したのです。夏の日、娘とわたしは夫にお留守番をたのみ出発しました。
バリ島から3日間のクルーズ。
コモド島はわたしが見たインドネシアの地図にも載っていなかったような小さな島。
コモドドラゴンは<コモド大トカゲ>ともいわれています。大きいもので体調5メートル! 太古の姿のままその島で生きていると聞きました。
低温動物のコモドドラゴンに会えるのは早朝。以前は観光客のために生け贄にヤギをさしだしコモドドラゴンを呼び寄せていたということですが、それはあまりにも残酷だと中止になったようです。
<野生動物なので絶対会えるかどうかわかりません>
<肉食なので近づいたら危険です。この前もイタリア人が足をかじられて亡くなりました>とコモド島へ上がる前に厳しい注意がくりかえされます。
夜明け……コモド島には港がないのでゴムボートで島にわたります。澄んだ海の色、早朝の風……。島の木々まで何かがひそんでいそうな怪しげな生え方をしていて、わくわくしてきます。
桟橋まで迎えに出てくれていたのは島のレスキュー隊の人達でした。
その人達に連れられて、朝のジャングルに踏み行っていきます。湿った緑の匂い____
40分ほど歩いた時、先方で「おおっ!」という歓声が聞こえました。
思わず走っていこうとしたわたしに娘が”注意事項”をくりかえします。(ふつう逆なのですが…)
いました!
切り取られたジャングルの空間に、一匹、二匹…・・七匹のコモドドラゴンが!!
チョロチョロとピンクの舌を出し入れして____
「わあ!」とまた思わず近寄ろうとしたわたしたちを(娘ではなく、外国の人たちと)、レスキュー隊のおじさんが木の枝で追い払い(!)
「インサイド! インサイド!」といいつつ、みんなを囲いの中に誘導していきます。
外国人の観光客がほとんどで、日本人はわたしたちツアーの数人。そのなかで
ほんとうにコモドドラゴンをみたい!
と熱望していたのは娘とわたしだけだったようで、
「かわいい〜!!、か〜わいい!!」
コモドドラゴンをみて、そう連発する娘とわたしを、みなさん不思議そうに眺めていました……。
 
下の写真がそのときうつした傑作(?)の一部です。(心の準備は、OK?)
どこがかわいい、かっていうと……
そうね……目から鼻にかけて。じっくりみると実にあどけない表情をしているの。
正面はいつも「ニマ〜と笑って人のいい感じむきだし」とは娘のコメントです。
恐竜の子孫___。
彼らが地球に棲んでいた時代。生き物達の歴史を思うとめまいがしてきそうです。
全て<物語>ではないのです。
人間が生きていられるわずか<数十年の人生>など、なんと”束の間”のことでしょう。
つまらないことでくよくよしている時間がもったいない、と思います。
 
あの島で、コモドドラゴンたちが時代を超え、いつまでも静かに暮らしていられますように……と願わずにはいられません。
 
 
 







 
   花いっぱいの小窓
             
                わき役たちの人生
春は不思議な季節です。
きらめいていて、匂やかで、やさしい風が吹き始めるのに、いつもわたしはこの季節には体調をくずして伏せっていることが多く、<切ないほど けうとい>という言葉がぴったりなのです。
以前、この春の”けうとさ”を表現したくて、
<ばら色の のこぎりが わたしの 胸を 削っていく…>
そんな詩を書いたことがありました。
 
この事件も5月で、5年目に入ります。
多くの人を巻き込み、悩ませてしまいました。
ひとつの作品を創り出した作者がふたりいることで、こんな厄介なことになるなんて切ない限りです。
<漫画>として世に出た作品だったとしても、(原作者が明記されているというのに)<すべて漫画家の仕事>という主張に同調してしまう人がこんなに多いとは知りませんでした。
<キャンディ>に関しては……<担当編集者>が陳述書に書いてくださったとおり、
 
______<水木の原作>をいがらしさんが<漫画化>した
ということなのです。
いがらしさんがすばらしく漫画化されたことは水木はもちろん、誰もが認めていることです。あの愛くるしい絵がキャンディ……キャンディ=いがらしゆみこ、でよかったのです。
 
しかし、この事件が長引いたおかげで、分かったことがあります。
それは、<いがらしさんの絵のキャンディ>を頭に描いてわたしは<物語>を書いていたわけではなかったこと___。
もちろん、あのかわいいキャンディの絵柄はイメージとしてありましたが、物語を書いている間、登場人物が必ずしも漫画の絵と一致していたわけではありませんでした。
けれど、作品の性質上、いがらしさんの絵と物語は<切り離せない>と思い込んでいたのです。
少しずつ、いがらしさんの絵と<お別れ>していくうちに、<わたしの中の物語世界>にはこの事件はなんの影響もないことがわかりました。
いがらしさんは、わたしの物語の世界までは侵害できません。
 
<登場人物の名前>について、いがらしさんや鈴賀れにさんが言い募っていらっしゃいますが、だれがつけようと<物語>は本質はかわりません。
キャンディは彼女にぴったりの名前です。しかし、<メロディ>という名前でも物語は同じでした。
 
原作者は物語の<作中人物>にさまざまな思い入れを抱くものだと思います。
わたしも同じ……
わき役にはわき役の人生があるのです。
<キャンディ>についてもそれぞれの人物にそれなりの思いがあって名前が付けられているのです。
……<ジョルジュ>についてお話したいと思います。
キャンディの登場人物の名前はイギリス系(イギリスの小説の中から参考にしました)が多いのですが、その中で<ジョルジュ>だけがフランス系の名前です。
彼は……そう、わたしにとって、忠実で信用のおける<僕(しもべ)>の名前はなんとしても<ジョルジュ>でなくてはならなかったのです。
 
わたしが小学生のころです。
理不尽なことで母親に叱られた時、(自分はこのうちの者ではないんだ…)と思うことで思いを鎮めていました。
(わたしは、ほんとうは ”あじさい屋敷”の娘なんだわ…)
わたしはうっとりと、あじさいの花で埋もれた洋館を想像します。古い洋館の名前はその時々によって変わりましたが、いちばんのお気に入りが<あじさい屋敷>でした。
わたしは、心のなかでつぶやきます。
(いまに”あじさい屋敷”からお迎えがくるのよ……お使いの…・)
 
ジョルジュが!
 
そうなのです。<ジョルジュ>はそこから生まれた名前、人物でした。
わたしを迎えにきてくれるはずの(?)<ジョルジュ>はいがらしさんの絵よりもっと年をとって白髪です。笑顔がやさしくて、けれど、よけいなことはいっさい言わない…(そこは同じね)
わたしが成長してからも<ジョルジュ>はいつもわたしを迎えにこようとスタンバイ(?)しているようでした。
あるとき、母にも<ジョルジュの存在>を話しました。
「怒られた時、そんなことを考えていたの?」
母は笑って、それから、ささいないい争いをし、仲直りをした後には
「ジョルジュは迎えにまだこないわねぇ?」
と笑って、わたしをからかうのでした。
「そのうち来るわ!」
わたしも笑って答えます。
「ある日、外で車の止まる音がして、ジョルジュが降りてくるの……”今までこのようなうちでよく我慢なさいました、さあ、あじさい屋敷にお連れいたします”ってね」
「ジョルジュは今まであなたを育てたお礼はしてくれるのでしょうね」
母はおかしそうに笑い、なかなか しっかりしたことを言いました。
わたしは亡くなった母とそんなたわいない会話をして楽しんでいたのです。
 
ジョルジュ……
とうとう迎えに来てはくれなかったけれど、キャンディの物語を書いている時、<忠実なる執事>が現われたとたん、自然にその名前を書き込んでいました。
<ジョルジュ>。
それだけで、あとにはなにも続く名前はありません。結局、つけないまま終わってしまいました。
キャンディのジョルジュは<わたしのジョルジュ>とは少し違います。
彼は<一生の恋>を大切に心に秘めたまま、独身を通します。
ジョルジュの恋のお話は、まだ別の物語ね。
 
ジョルジュだけでなく、キャンディのわき役たちひとりひとりに歩んできた人生があって、思いがあるのです。
ポニー先生、レイン先生は なぜ シスターになったのか…
フラニーの初恋は…
 
<原作>のなかではふれなかった、けれど、わたしの中に埋もれていたそれぞれの人物のサイドストリーをこの事件は思い出させてくれました。
それはね、原作者の趣味よね……登場人物が遊びに来てくれては思い出を勝手に語ってくれる至福の時間……しあわせなひととき…。
それはだれにも侵されません。











         春の小窓から
          まんが編集者たちへの願い
 
 
 
3月になると旅に出たくなります。それも北国の入り口に位置するところに___
以前、千曲川のほとりの町で<春>を実感したことが忘れられないのです。
3月の、雪がとけはじめたころでした。
ゆっくりと田園のなかを歩いていたら、ふいに風の流れがかわり、ケーキをつくるとき、ホイップしていた卵が急に白くふわふわになった……突然、そんな感じの風が吹きはじめたのです。文字どおり<春が忍び寄ってきた>感じがして胸がいっぱいになり、わたしは歩くのをやめて、
「今、春が来た…! すぐそこにいるわ!」と知らせて、同行のひとに驚かれてしまいました。土地の人にいくら説明しても「いつもと同じだ」と笑っていましたが……
あれこそまさしく<春>が降り立った瞬間に居合わせたのだと思っています。
 
最高裁の判決が待たれる日々です。
明日か(この小窓をUPした時はもう…?)まだ数ヶ月先なのか、たいへんスリルがあります。
(最高裁の判決がおりたら、この事件もやっと終わる……)
そう心頼みにしてきましたが、このところのいがらしさんの動きを見ていると、そう簡単には終わらせてくれないようです。
 
<原作は参考著作物> <水木はサポートしただけ>といいつのられ、現在は
<原作者はスタッフと考えるべきである>との主張のようです。 
 
事件発生直後はいがらしさんのこういったお考えは<だれかの入れ知恵>か<きっと背後に悪い人がついているのかもしれない>と思い悩み、そういった人から離れた彼女と<話しあう機会さえあればわかってもらえるのでは…>と考えてきました。
裁判所でなんとか会えないかといがらしさんが出廷なさるのを待っていました。
裁判長にも「いがらしさんと直に話しあえれば解決が早い」と本人の出廷のお口添えもお願いしました。
いがらしさんがやっと、マネジャー(当時)たちと出廷なさったとき、わたしは思いきって裁判所の廊下、喫煙所で話しかけました。
いがらしさんはお忘れでしょうか。わたしは、
「なんとか 話あえないかしら…?」
そういったと思います。
しかし……そのときの、いがらしさんの対応は思い出すのも哀しいものでした。
そのときから、この事件はそう簡単には解決しないのではという予感がありました。
いがらしサイドからの書面には<原作は参考にしただけ>という言葉が繰り返し書かれ、
わたしは次第に、
(この言葉がいがらしさんの”長年の本心”だったのだ…すべて”本人の意思”なのだ…)
とあきらめるようになりました。
最近、いがらしさんが漫画家諸氏に送られた水木への<誹謗文書>を読むと<(いがらしさんは)水木が原作者だと完全否定はしていない。”関与”は認めている>と書いてありますが、結論として<否定>なさっていることには変わりありません。
読者などから<なぜ話しあいをしなかったのか>と問われても(いがらしさん本人は水木が話し合いを拒否したといっておられますが)<対等>な立場と思われていないのではどうしようもなかったのです。
 
しかし、この<参考著作物>という<言葉>には感心してしまいました。
確かに、<漫画作品>の<原作>として生み出される物語は、漫画家にとって<参考>という言葉もあてはまるかもしれません。
<漫画編集者>はヒットする<漫画作品>を作り出すのが仕事です。
漫画のために<原作>を依頼するのです。”サポート”という言葉を使う編集者もいたかもしれません。しかし、編集者は<原作者>にそういった言葉は決して使いませんでした。
漫画編集者たちが<原作つき漫画>をなぜいやがるのか……当時はわからなかったことが、25年たって理解できました。
漫画家と原作者の”間”に立って、気をつかわれるのですね。
 
しかし、今回の事件で、いろいろな編集者と接し<原作は漫画のたたき台>と考えるタイプの編集者が現在もいらっしゃることがわかりました。つまり<参考著作物>です。
いがらしさんひとりを責められません。
漫画編集者のなかでも、<原作者>の位置ははっきりとかたまっていないようなのです。
最近、雑誌<なかよし>の中で<原作>という言葉を使わず<シナリオ>と表記してあるのをみて、たいへん複雑な気持ちになりました。いったい、どういった意図なのかわかりませんが、<シナリオ>と表記されてしまえば<原作>ではなくなるのでしょうか。
物語の<核>の責任はどうなるのでしょう。
 
わたしは原作を生かして描くのも、漫画家の技量だと思ってきました。
いくら絵が上手くても漫画家のオリジナル作品には限界もあるでしょう。<原作>をつけることによって新しい世界が開かれることも大切なのです。
ですから、特に少女漫画家のなかで原作をいやがる傾向は、漫画そのものの衰退を呼びかねないとも思ってきました。
いがらしさんはそのなかで、少なくとも一緒に作品を創っている当時は
「わたしは、こんな話は書けないから、おもしろいわ」と
ご自分の立場を素直に話され、だからこそ、わたしは原作者としてたいへん書きやすく仕事が続けられたのです。
それは、ひとつの漫画家としての姿勢であり、原作付きはなんら恥じることはないのだと、わたしは今でも思っています。
恥じるべきは、その作品を25年もたってから、<参考>などといいはじめられたことでしょう。
この事件でわたしが一番こだわってきたのもいがらしさんいわれる所の<勝手にグッズを許可>したことではありません。勝手に許可できた<原点>。いがらしさんが原作者をスタッフ視していたことに立ち直れないほどの衝撃をうけたのであり、これだけは今後のためにもはっきりさせておかなくてはならないと、考えたからです。
 
最高裁で判決がでても、いがらしさんが<原作者はスタッフ>というお考えでいる以上、解決はつかず、わたしも作品を生かすのはあきらめる覚悟はできています。
それは自分の作品をあきらめることでもあり、それがどんなに苦渋の結論かわかる方にはきっとわかっていただけるでしょう。
 
今後、<原作者>という仕事はどうなっていくのでしょうか。
わたしは、漫画家より”漫画編集者たち”にまず、<原作とはなにか>と考えてほしいと願っています。単にアイディアの提供者なのか、骨太の物語を期待しているのか……
 
若き原作者を志す人達から、過去何回も<原作者になりたいのですが>というお便りをいただきました。
今、そういった方たちにいえることは
「もし、あなたの物語をきちんと理解してくれる<編集者と漫画家>に出会えなければ、原作の仕事はおやめなさい。その物語を大切にあたためて小説かシナリオとして書きためておいて。それがすぐに形になるとは限らないけれど、いつかきっと糧になるとおもいます」
…そう忠告すると思います。
<そのひとだけの物語>はそう簡単に生まれるわけではなく、心のどこかに種がまかれ、長い時間をかけて、育っていくものでしょう。
ほかの人には見えない所で。
そのことを<理解>しないひとびとに<作品の魂の切り売り>はしてはいけない、とわたしは言いたいのです。
 
 











 
     冬の小窓
           
           二つのバッジ
 
 
<ふゆ>という言葉の響きが好きです。季節をあらわす言葉はみんなきれいですが、「ふゆ……」、とつぶやくと本当に寒そうで身が引き締まってきます。
冬は寒い……けれど、わたしが四季のなかでいちばん暖かいと感じるのは<晴れた日の冬の陽射し>なのです。
晴れた日の朝、研ぎ澄まされたような青い空。もし、前の日に雪が降り積もっていたなら最高。真っ白と真っ青。積もった雪が昇ってきた太陽に小さなガラスの破片のようにキラキラ光っています。
雪が積もっていなくても、そんな朝、冷え切っていた我が家のデッキからは湯気が立ち上りはじめ、魔法にかかったようです。デッキだけではなく、日当たりのよいところにのびている庭の木々からも<ささやき>のように一時薄くやさしい煙が立ち上り、その一瞬をのがさないように、とわたしは庭をみめます。
 
<黒い>報告書をUPしました。
この機会にこれも長い間気にかかっていた<キャンディの二つのバッジ>についてお話しておきたいと思います。
すっかり忘れていたその事を思い出させてくれたのがまだ出来たばかりだった頃の<CCネット>の書き込みでした。
わたしは、当時はまだ自宅のパソコンで<CCネット>が見られなかったので、友人がプリントしてくれたものでその書き込みを読んだのです。その書き込みには<子供の頃読んだ”なかよし”では確か、キャンディがアルバートさんと暮らしていたとき<バッジ>をみつけるシーンがあったと思うのだけれど、単行本にはない。自分の記憶違いかと気になっている>とありました。
……ああ、そんなこともあった、となつかしく、書込んだひとに教えたくてたまりませんでした。
<よく、そんなことまで覚えていたのね!>
読み込んでくださっていたそのひとに感心して、CCネットにそう書込める環境であったらどんなによかったでしょうね。
けれど、わたしは”その書き込み”のおかげでその事実をはっきりと思い出し、それを裁判の証拠として提出しました。わたしはいがらしさんから原作者として否定され、<報告書>にあったように<原作者としてはなんの発言権もなかった>というような書面を裁判に提出されていたのです。
<二つのバッジ>のことは、<原作者に発言権があった>という証拠になったことでしょう。
 
問題のシーンは、アルバートさんと暮らしていたキャンディがアルバートさんの枕の下から<丘の上の王子さま>からもらったバッジと同じものをみつけるのです。
 
わたしは、その回のネームのチェックができませんでした。
その頃、わたしは海外に行く事が多くなっていて、それ以前にも旅行中にわたしにとっては<大事件>がおきていました。
しかし、<その件>は物語的には大筋からは外れないので、個人的なこだわりとして心のなかで折り合いをつけました。
しかし、その回の<バッジ>は困ります。
「あんな大切なものが二個も三個も出てきたらたまらない!」とわたしは新担当といがらしさんに怒りました。当時、担当は新しい編集者に交代したばかりでした。
___アルバートさんが<丘の上の王子さま>であるという<伏線>がいると思った、
というのが<枕の下から都合よくバッジが出てきたシーン>を無断で書き加えた新担当といがらしさんのお答えでした。わたしが旅行中でいなかったことも、相談できず、無責任だったかもしれません。
しかし、これこそ<物語の大筋に関る大切な事>とわたしは激しくいいつのったと思います。
わたしは、そういった<安易な御都合主義をどうにかして避けて書きたい>と物語を考え続けてきたのです。
 
新担当もいがらしさんも、そのことはすぐに理解してくれ<単行本>でカットし直す事を約束してくれました。
ですから、そのシーンは当時の”なかよし”にしか残っていません。
わたしが<CCネット>の書き込みに感心したのは、ほんとうによく覚えていたのね、といううれしい感嘆でもあったのです。
 
けれど……
現実はきびしく、哀しい。
伊東弁護士とともに国立図書館にいき、当時の”なかよし”からそのシーンをコピーしました。<単行本>ではいがらしさんはさすがプロと思わせるカット処理をしています。
ふたつを見比べてわたしは何度もため息をつきました。
あのシーンをいったい何人の人が覚えていてくれているのでしょう。
 
「あなたの記憶違いではなかったのよ……」
”書込んだひと”にそうお話したいけれど、もしかしたらおぼろげな記憶のままの方がよいのかもしれない、と思ったりしています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 











 
   カーテンが揺れる12月の小窓
 
          漫画原作を書いていた頃   PARTV
 
 
漫画の原作とは、なんなのでしょう。
こうやって<原作を書いていた頃>をふりかえり、あらためて考えています。
わたしが、やってきた仕事はどんな意味があったのでしょうか。
25年も経って漫画家から<書いていない>といわれる仕事……。
むろん、そういった卑劣なことを言い出す漫画家などそうはいないでしょう。しかし、わたしが心底、驚愕落胆したのは、そういった漫画家の虚偽を半ば信じてしまう人達が<存在>したということです。
<本当は水木は原作を書いていない。ちょっと関っただけで本に名前を印刷された>__いがらしさんのそんな主張は<漫画家本人>がいうと、かなり信憑性があったでしょう。
それに、原作者の<水木杏子>は著名人でもなく、10年以上もその名前を使っていませんでした。
わたしは四分の一世紀もたって考えてもいなかった事、<原作を書いた証拠>まで裁判に提出しなくてはなりませんでした。
 
しかし、今回の事件をきっかけに<少女漫画の原作者の歴史>についてベテランの編集者達にお聞きすることができました。
その昔、<原作者つき>を嫌う漫画家によっては<原作者名をはじめから出さない>いわゆる<ゴースト原作>も許していたようです。
けれど、<これではいけない>と編集部も考え、少しずつ改善されていったのでしょう。
いがらしさんは、ちょうどその改善の狭間の漫画家だったのかもしれません。
今回の裁判にもいがらしさんは当時の<なかよし>の表紙に自分の名前しか出ていない事を”スター作家”であった証拠とし、原作者は名前も記載されない存在だったのだ、と書面を提出しています。確かに、その時代は<原作者名>は雑誌の表紙には記載されていませんでした。(当然、今はきちんと記載されています。)
だからといって原作者が<漫画家のアシスタント>というわけではなく独立した仕事としての<著作権者>であることには変わりません。当時は”そういった悪しき慣習だったまで”と、水木サイドが裁判所に提出する書面に出版関係者がコメントをくださっています。
 
漫画原作者が世間的にも 認知されたのは<故 梶原一騎氏>の功績によるところが大きいと思います。その後、少年漫画には才気あふれる原作者が何人も登場し、現在に至っていますが<少女漫画>は停滞したままのような気がします。
 
わたしが原作を書かなくなった理由_____そのことには今回はふれません。
キャンディの物語を書いているうちに<止めよう>と決心しました。しかし、その後、すこしだけ続けられたのは 秋田書店で連載のコンビをくんだ漫画家<英 洋子さん>のおかげなのです。
秋田書店とのお付き合いは<PART T>で書いたように、亡き母の知人から発展したものですが、<プリンセス>の編集長が雑誌<ひとみ>に移られ、わたしも<ひとみ>で原作を書き続けることになりました。
英さんと共に作ったのが<プルミエ・ミュゲ”初咲きすずらん”>という意味のフランス語です。主人公の父親が<天才的 香水つくり(調香師)>。舞台はフランス。<香水>の村だったのでそんなタイトルにしたのですが、ちょっと、わかりにくかったかしら、と思っています。主人公の<シェビィとフォン>はそっくり。二人の名前をくっつけると<シェブルフォイユ>…スイカズラの花の名前になります。ふたりは、はたして双子かそれとも…いつのまにか愛しあうようになった<同じ顔のひと>と呼び合うふたり…といった今でも大好きなお話です。(余談ですが スイカズラの英名は”ハニーサックル”。この香りの石けんなどをみかけると今でも英さんに贈りたくなります。)
英さんとは なつかしいお付き合いがつづいています。わたしの児童書の挿し絵も何回かお願いしています。
彼女は一流の漫画家になられた今でも折りにふれ「”プルミエ”を描いたおかげで、漫画の連載の書き方がわかった気がするのです。」といってくれるのです。
同じセリフをもうひとりの若手の漫画家からも聞きました。
わたしが,あと少し、原作を書かせてもらおうとおもったのは、そういった言葉に励まされたからです。わたしの原作でも、若い漫画家の少しは役に立つのだろうか、と。
英 洋子さんとは、読み切りの<サマーシャワーの香り>も。
 
<タイニー・マーメイド>は<冬木ゆう>さんと。
<ひとみ>最後の作品、<夢見てBOMパッ!>を<みすとかすみ>さんと。
しかし、この<夢見てBOMパッ!>は漫画原作のために書いた作品ではありません。
以前、<ころじかる・むにゅ・ぱっ!>(講談社)からの流用でした。お話は<魔女の塾>に間違って入ってしまった主人公が、しっぽがカギの形をした ゴブリンという悪魔と対決するのです。(このゴブリンが変なやつで、<いじわるゴブリン>という歌を本人の前で105番まで間違えずに歌ったら、悶え苦しんで”敗北する”というわけです。書籍のときは面白がって<いじわるゴブリン>の歌詞を105番まで<付録>としてつけました。)
 
 
その間、<別冊少女フレンド>では <布浦 翼さん>と組みました。
読み切りの <天使の木>……この作品は、布浦さんによると”ゴシックロマン”とのことですが、そういえば、ちょっと不思議な妖しいムードかしら。
布浦 翼さんとの連載は<サンディズ チャイルド>。”日曜日に生まれた子はなんでも夢の叶い恵まれている幸せな子…サンディズチャイルド”。この言葉に出会ってから暖めていたロマンスです。”サンディズ チャイルド”とはおよそ縁のないスラムにそだった二人。少女は<サンディズ チャイルド>にむかって、突き進んでいく…本当は誰を愛しているか知っているのに。
 
そして…<夢見てBOMパッ!>以後、10年たって……
<なかよし時代>の担当が<週間少女フレンド>の編集長になり、久々に原作を頼まれ、彼となら、と引き受けたのです。漫画家が<美村あきの さん>と聞き、彼女の描くアンニュイな感じの青年にアラビア風の服を着せたらステキ・・突然、高層ビルの窓からラクダに乗って現われた その青年に さらわれたたら もっとステキ…と浮かんできた物語が<百年のライラ>です。
それ以後は、原作の仕事はしていません。
 
この事件以後、「原作を書き続けていたらよかったのに」という人と「原作をやめてほんとうによかったね」という人に分かれています。
わたし自身は、どう考えていいのかわからなくなり、この頃に至っては<なんのために原作を書いてきたのか>と嘆く事のほうが多い日々でした。
しかし、この<原作を書いた頃>を書いた後、”あの作品”もそうだったのですか、と驚かれ、どなたかの心に残っていた事がわかりました。(リクエストしてくださったメイフラワーさんに感謝)
 
わたしの原作はこれがすべてではありません。
単行本になっていない書き下ろしも何本かありますが、タイトルなどはっきりしないので
恥ずかしいのですが、ふれることができませんでした。
 
最後に<異色の漫画原作>を。
今をときめくデザイナーの<丸山敬太さん>と。
ファッション誌の依頼で、まだ学生だった丸山さんのすばらしいデザインを生かした物語を創ってほしい、といわれ<構成、こまわり>をして、丸山さんがイラストを描きました。
なにより感動したのは丸山さんのデザインブックを見せて頂いたときです。
ため息がでるほどのたくさんの夢のようなドレス……!!!
(きっと、すばらしいデザイナーになられるだろう)とその時から信じていました。
 
<KEITA MARUYAMA>のコーナーがあるデパートにいくと必ず寄ります。
そして、年月の美しさをしみじみ感じ、なつかしい暖かい気持ちになってその場を去ります。
 
そう……
やっぱりね、漫画原作を書いてきて よかった!!!
 
 











 
  半分開いた12月の小窓
 
          漫画原作を書いていた頃   PARTU
 
 
 
思い返すと、わたしが原作を書き続けてこられたのは<原作者>にたいへん理解のある編集者とめぐりあえたからだったと、しみじみ思います。
原作を書かなくなってからも<担当編集者たち>とは交流がつづいていて、仕事とは別に会う機会も絶えずありました。<なかよし>時代新人編集者だったひとたちも<編集長>になりそんな機会に会った時、少女漫画における<漫画の原作>のむずかしさについて話した事を覚えています。彼がいうには<原作>をつけたいと願っても<原作を生かせる漫画家がいない>ということ。しかしそれ以前に「原作者を使えるだけの編集者がいないんだよ。そういった編集者を育ててこなかったことは、間違いだったと思う」と、ため息まじりの口調でした。
<原作>つきの漫画を世に出す場合、担当編集者の<想像力><文学性>が大切な要素でもあります。担当編集者は原作者の書きたい世界を理解し、また、それを作画する漫画家の思いも理解し、と間に立ってオリジナル漫画を作成する何倍かの労力を使わなくてはならないのです。
編集者としても、原作者を使わない方が<楽>に決まっています。しかし、それではいずれは<物語>が行き詰まってしまう、と漫画を愛する優秀な編集者は考えていたようですが、現在もあまり変化したとは思えません。
 
わたしは、そんな<理解ある編集長、編集者>について<別冊少女フレンド><週間少女フレンド><なかよし>と原作を書く拠点を変えていきました。
 
今回は<なかよし>時代のことを思い出してみます。
 
<なかよし>連載作品では、今年復刊された<白い夜のナイチンゲール><ロリアンの青い空>(共に作画 志摩ようこさん)はわたしの好きなように書かせていただいた物語です。
今読み返すと、大人びた内容でよく書かせてくださったと当時の編集部の意欲が感じられます。当時、この作品たちはそんなに評判にならなかったと思うのに、25年もたって<復刊>されるとはたいへんうれしい驚きでした。<ロリアンの青い空>の時の筆名は<加津綾子>。けれど、今回、復刊の際<名木田>に戻しました。(編集部はいつの日か<原作作品集>を編む時のため、名前は統一しておいてほしい、ということでした。そんな日がいつか来るといいな……)
復刊といえば、<エトルリアの剣>もうれしいニュースでした。
この作品は<別冊少女フレンド>で文月今日子さんとコンビを組む企画が持ち上がり、彼女の作品のファンだったわたしは大喜びで<壮大なロマンがいいな>と想像していました。
ちょうどその時、知人から<エトルリアの水牛櫛>という華麗な櫛をプレゼントされたのです。
むろん<エトルリアの水牛櫛>とは名前だけのものですが、その櫛から広がっていった世界……<水牛櫛>が<水牛の剣>に変化し、あの物語の土台が生まれました。
<原案>となっているのは当時わたしには長編を書く時間的余裕がなく、また、なにより<原案原稿>だけで想像力たくみな文月さんには充分だったのです。
復刊されることになり、文月さんとも何十年ぶりかでお話しました。
文月さんは故郷でのんびりと、しかし、マイペースで描き続けておられます。昔の感じの作品がまた読みたいな、と話しました。<ひみつの花園>やなつかしい<地中海のルカ>など作品をたくさんプレゼントして下さったお礼に<エトルリアの水牛櫛>を贈りたかったのだけれど……まだみつからないので<待っててね>とお預けにしてあります。
 
読み切りで印象に残っているのは (まつざき あけみさん)と組んだ<星への階段>(この時わたしの原作者名は<香田あかね>)です。
まつざきさんの華麗でいながらどこか哀愁のにじむ少年が好きで、浮かんできた薄幸の少年……まつざきさんも気に入って下さっているようで他の出版社から出た彼女の作品集にも収録されています。
もうひとつは<星への階段>とは全く違うイメージの<ゆうれいにプロポーズ>(まつざき あけみさんのおチャメな面が出ている漫画です)というロマンチックコメディ。逆立ちして鏡をみたらそこに<ハンサムなゆうれいが>という変なロマンスの話でした。これはなんだか人気があって続編を書いた記憶がありますが…
この設定は自分でも気に入っていたのか、<逆立ち>はその後、<きらら星の大予言>(作画 あさぎり夕さん)で生かし、ハンサムなユーレイは児童書の<ふーことユーレイシリーズ>に引き継がれっていったと思います。(まだまだ、ハンサムなユーレイを主人公に書きたいお話があるのよ)
 
そうそう<サニーあなたの番よ!>(作画 佐藤まりこさん)もありました。
 
ポピーちゃんシリーズは、いまでこそ大企業になった<バンダイ>の元の会社名が<ポピー>だったのです。
<ポピー(バンダイ)>とのタイアップでお人形のための宣伝作品というのが原作依頼でした。そのつもりで楽しみながら書いていたら、人気が出て「ほんとうはポピーちゃんがアンケートで上位に来ると困るんだよなあ」と編集に苦笑いされました。
上位は巻頭や巻末がしめて当然だったのです。
最初のポピーちゃんはたぶん(?)<歌え!ポピーちゃん>というタイトルで<原ちえこさん>が作画だったと思いますが、当然、本にまとまっていると思っていたのに、わたしの書庫にありません。ポピーちゃん人気は原さんの力量によるところが大きく、その後原さんは独自の世界を描き続け、現在も活躍していらして、なつかしくうれしい思いです。
ポピーちゃんは<峡塚のんさん 作画>によって<アイLOVEポピーちゃん>に引き継がれました。(この時のわたしの原作者名は<加津綾子>を使っています。)
 
<なかよし>で原作を書いたのは<キャンディ>のあとの<ティム>。
そのころは、もう原作者として永い休暇に入る気持ちでいました。
<なかよし>最後の作品は<きらら星の大予言>でした。
………
PARTTで映画<ペーパームーン>をもとにして、といわれて原作を書いた作品が判明しました。
 
<ミリーは気ままな天使>(志摩ようこさん 作画)でした。
 
次回は12月15日〆切(?)とし、秋田書店<ひとみ>で書いていた原作などについて書きますね。
 
 











   11月の小窓    
 
    漫画原作を書いていた頃   PART T
 
わたしにとって物語を紡ぎ出すことは<呼吸すること>と同じなのです。
それは<仕事>というより生活の一部なのかもしれません。
わたしは不器用な手つきでも楽しみながら、ささ舟のように<物語>をつくり、時代という川に流します。わたしの作ったささ舟はスイスイと流れていくこともありますが、不出来なため途中で沈んでしまうこともあります。また、不出来であっても川の流れに助けられて進むこともあったでしょう。わたしの役目はその物語のささ舟を送り出すこと…そう思ってきました。しかし、”ささ舟の行方”についてもわたしは心を配らなくてはならなかったのだと今、思っています。
メイフラワーさんのリクエストのおかげで、原作について考えるよい機会を与えられました。
これから、わたしが関ってきた漫画原作について書いていこうと思います。
 
長い間、わたしは自分が漫画の原作者という意識すらなく<物語>を紡ぎ、漫画家にゆだねてきました。どこの国の話でも、またファンタジィでも<なんでもあり>が可能な漫画の原作という仕事をとても楽しんでいたのです。
本来、わたしの夢は<赤毛のアン>のような<少女小説>を書くことでした。高校二年のときあこがれのジュニア小説コンクールに入選して、卒業後、デビュー作を書きましたがその後、わたしが目指していた路線とジュニア小説は隔たっていきました。
その間、当時の別冊少女フレンドに読み切りの少女小説を依頼されたことがご縁になり編集長に薦められ、漫画の原作を書き始めたのです。
20歳のころでした。それから10年余りの間に、読み切り、連載、と書き続け、自分でも何を書いてきたかはっきり覚えていないほどです。読み切りは単行本に収められた作品もありますが、そのまま流されていった<ささ舟>もたくさんありました。
 
わたしが最初に書いた記念すべき原作……が恥ずかしいことにはっきりしないのです。
わたしのなかでは<世界のティーンシリーズ>が原作としての記憶のはじまりだったように思えます。
<世界のティーンシリーズ>はすばらしい企画でした。
*イタリア編<サンレモにカンパイ!>は<大和和紀さん>
* アメリカ編が<おおっ プロム!>で<神奈幸子さん>
* フィンランド編が<杉本啓子さん>との<白い夜のルチア>でした。
フランス編のタイトルがどうしても思い出せず、しばらくぶりにフランス編を描かれた青池保子さんと電話でお話しました。青池さんはしっとりしたお声でゆっくりと話されます。少しも変わっていないお声、その姿勢がうれしかったです。
フランス編はタイトルこそ失念した情けない原作者のわたしでしすが、主人公の名前は<ジュヌビエーヴ>にしたい(”シェルブールの雨傘”という映画のヒロインの名前)と決めていたので、「<ジュヌビエーヴの夏>じゃなかった?」と尋ねると、さすが、青池さん!
静かなお声で「たぶん<さらば 夏の光>だったと思うけれど…」
「それだ!」一瞬にして扉の絵まで思い出したわたしでした。なつかしい…・
 
*フランス編、青池保子さんによる<さらば 夏の光>……

青池保子さんとはそれからもご縁があって、わたしの初めての週刊少女フレンド誌の連載<グリーンヒル物語>でもコンビを組むことになりました。
<グリーンヒル物語>はソーントン・ワイルダーの戯曲<わが町>が原作で、その戯曲を編集部から渡されて「これをもとにふくらませてほしい」というのが依頼でした。
ですから完全なオリジナルではありません。<原作>という表記もその当時から(これでいいのかしら)という思いがありましたが、編集サイドが<オリジナルな部分が多い>と判断してくださったようで<原作>となっています。しかし、わたし自身すっきりしないところがあったので、作品のラスト、未来への希望として生まれてくる子供の名前を<ソーントン>にしてワイルダー氏に敬意を表したつもりです。しかし、今にして思えばこれはもっとデリケートに考えるべきでした。その後、似たケースで<映画 ペーパームーンをもとにして>という依頼で読み切り原作を書きましたがこの<もとにして>というのが、くせもので設定など、どうしても似てきてしまいます。わたし自身もその二作は、ずっと心にかかっていました。今のわたしなら<きちんと”〜より”と表記してほしい>と依頼すると思いますが、当時はわたしも編集サイドも軽く考えていたのでしょう。
作者たちにはたいへん不愉快なことをしてしまったと申し訳ない思いです。(ソーントン氏は死後何十年かたっていて著作権は切れていたと聞いていましたが)
もし復刊されることがあったならば、原作の表記をきちんと入れたいと思っています。
 
30年前、青池さんはそのころからスケールの大きい漫画家という印象でした。
<グリーン・ヒル物語>以後、秋田書店から少女漫画雑誌を出すので原作を書いてほしいという依頼がありました。なんと、母の友人のお孫さんが秋田書店にお勤めだったのです。そういったご縁でだれと組みたいかと尋ねられ、即座に青池さんのお名前を挙げました。
当時、青池さんはフリーになられて故郷に戻っていらっしゃいましたが<なんとか くどき落したくて>ご実家までお電話したことを覚えています。そうして生まれたのが月刊プリンセスに連載した<ミリアム・ブルーの湖>という作品です。
父親が発明した潜水艦の家で暮らすへんな一家の少年とその湖を愛す少女とのロマンス物語……
これは青池さんにとって<少女漫画路線 最後を飾る作品>とわたしは勝手に位置づけています。(この前のお電話の時、ご本人もそう認めていらしてうれしくなりました。)
その連載後、青池さんは<イヴの息子たち>から精力的に本来のご自分の世界を広げられたように思います。かくれ青池ファンとしてはご活躍を目にすることがなによりなつかしく、うれしいことです。
 
大和和紀さんとのお仕事で印象に残っているのは100ページ企画の<ル・グラン・アンヌ号はいく>という作品です。大和さんと今は亡きやさしい笑顔の編集者、加藤武夫さんと横浜に豪華客船の取材に行きました。わたしは<豪華客船の中でのみ>くりひろげられるお話を書きたかったのです。大和さんは当時から本当に理知的で冷静、繊細な漫画家でした。「感性が似てるから組むと物語にのめりこんで 作品として成功するかどうかわからないね」という話を大和さんとした記憶があります。なるほど原作者と漫画家は”全く別の感性”のほうがおもしろいかも、と新鮮な思いでした。
他にも、ドイツの東西の壁を舞台にした<ブランデンブルグの朝>という作品が記憶にあり大和さんとコンビだったような気がしているのですが(このタイトルは大和さん担当の加藤武夫さんがつけてくださって<わたしがつけたのよりステキ>と感心した覚えがあるのです。)はっきりしません…。
(ほんとうに、こんな調子なので自分でもあきれます。 ごめんなさい)
 
つい、この間も「<初恋めがね>という作品の原作をお書きになりませんでしたか?」と尋ねられるまで、すっかり忘れていました。小学館、わたしがデビューした<女学生の友> という雑誌が新しく生まれかわり<JOTOMO>になって何本か原作を書いたのです。
<初恋めがね>は<飛鳥幸子さん>だったとおもいます。
 
今回は初期の原作で雑誌<なかよし>以外に書いた原作を中心に思い出してみました。
以下は上記で触れなかった作品のリストです。
 
* ビビアンヌの王子さま      漫画(敬称略)  沢 美智子
* ローズピンクは初恋の色              沢 美智子
* 魔法使いの花束                  神奈幸子
* 足音が聞こえる朝に               神奈幸子
………
薔薇の樹 (集英社)                 菊川近子
 
次回は、なかよし時代の作品を中心に思い出してみます。
どれか、覚えてくださっていた作品、ありますか?      
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
   10月の小窓
 
           夕焼けのはなしをしよう
 
 悲しいはなしを
 するのはやめよう
 それよりは
 海のはなしををしよう
 佐渡の関崎から ながめた
 海の色が
 どんなに青かったか  を
 
すすきの原を走った
浜辺で貝がらを 拾った
美しい いちにちが
私の中に たくさん生きている
 
つらかったことを
思い出すのは  やめよう
やさしかったひとのことだけ
くり返し  思おう
やさしいひとは
かぎりなくいた__
そう
悲しいはなしを
ひとにするのは やめよう
それよりは
夕焼けのはなしをしよう
語りたくて 語れなかった
ことばを  つつみこんで
静かに朱く もえていた
夕焼けのはなしを___
                  詩集<思い出は歌わない(サンリオ出版)>より
 
 
ふと、昔書いたこの詩を思い出しています。
<思い出は歌わない>には若い頃書いた未熟な詩がたくさんおさめられていますが、その後、いろいろな方からこの詩集のことをあたたかい言葉でいわれ、そのたびなんだか恥ずかしく面映ゆい気分になっています。
おさめられた詩にはそれぞれ思い出がありますが、この詩にはとくにつらい思い出があり<悲しいはなしをするのはやめよう>と書きつつ…これから書くのはとてもせつない思い出です。
 
当時中学2年生だった愛子さんがこの詩をみつけて<合唱曲に作曲したい>と手紙をくれたのは詩集が生まれてだいぶたったころでした。もちろんすぐに承諾して<わたしも曲ができるのを楽しみにしている>と返事をしました。
そしてしばらく後、愛子さんから作曲した合唱曲<夕焼けのはなしをしよう>がコンクールで表彰された>といううれしい便りが届きました。そして、そのテープぜひ、わたしに会って渡したいと書いてあったのです。わたしもうれしくなって手紙にあった電話番号にかけました。電話の愛子さんの声は少女らしくフルートのように澄んでいました。
当時、わたしはキャンディの連載やほかにもいろいろ抱えてすぐには時間がとれないので
少し待っていただくことになりました。
その<少しが>……<かなり>になり、今でもわたしの後悔するところとなるのです。
 
ある朝、電話が入り、お母様から愛子さんが通学の途中で交通事故にあって亡くなったと聞かされました。
わたしは受話器をもったまま、その場にへたりこんでしまいました。
わたしに会ってテープを渡すことを楽しみにしてくれていたのに……。わたしが日々に追われ、つい日延べをしてしまったために愛子さんの願いを叶えることができなかった…・
いくら悔んでも悔みきれない思いでしばらく呆然としていました。
数日後、わたしは愛子さんのご自宅を尋ねました。
葬儀はいく日も前に終わっていたので、愛子さんの写真がたくさんの花に囲まれて飾られていました。
はじめて会った写真の愛子さんは……想像どおり愛らしく少女らしく利発で夢がちに微笑んでいました。いつでも会える、と思っていました。愛子さんは若く時間はまだたっぷりあったはずなのです。
お母様と弟さんと三人で愛子さんが作曲した<夕焼けのはなしをしよう>のテープを聞きました。わたしにプレゼントして下さる予定だったテープ…やさしいやさしいその曲を。
(ごめんね…ごめんね…)
心の中で何回も愛子さんにあやまりながら…・。
 
そのテープは今でもわたしの宝ものです。
けれど、うちでゆっくり聞けるまでには何年もかかりました。
愛子さんは聞いて欲しくて作曲したのだから、もっとみんなに聞いてもらいたい…そう思いながら、つらくていつも聞くのはひとりです。
 
愛子さんが亡くなって20年が過ぎました。
元気でいてくれたなら……キャンディ世代です。
今、わたしの力になってくださっている読者の方達の向こうに愛子さんがいつも透けてみえます。
 
悲しいはなしはやめよう…だったわね 
愛子さん…
わたしは、あれからたくさんの美しい夕焼けをみました。

























腹巻き牛・・・・プリンス・エドワード島であった<腹巻き牛>。たいへ んめずらしい!

むかって左が<ハート牛パート2>と<トランペット牛>

牛たちにむりやり歌をきかせているわたし。逃げ出した牛もいる。

 
  九月の小窓
             牛の話    
 
丘のふもとにすわって眺めているのは淡い緑にふちどられた牧場の地平線ではありません。
視野の外、右のはしっこからその牧場の地平線に現われる牛を待っているのです。
今、牛がゆっくりと丘の右端の森から現われました。わたしたちの目を意識してたった一頭、思わせぶりに丘を進んできます。わたしたちが拍手すると牛は丘の真ん中でわたしたちを見てポーズ(?)をとり、またゆっくり丘を横切って左手の森に消えていきました。
これで五頭目。眺めていると牛が<丘の地平線>という劇場の<舞台>に上手のこんもりした森の木々の<カーテン>から現われるようで、つい牛に拍手をおくってしまうのです。また、牛も期待に応えるように丘の舞台中央で立ち止まってこっちを見るしぐさが、ある牛は詩を朗読しているよう、またある牛は演歌を一節…それぞれのようすがおかしくて見飽きません。
七頭、丘の舞台に現われるのをみて、その日のショーは終わったようでした。
 
牛が好きです。
牛を見ると、声をかけたり、歌って呼びかけたりします。牛は歌が好きなはず・・と勝手に思い込んでいますが、私の歌では全員注目とはいきません。いちばん牛の注目を集めるのがうまいのが夫で口に指をいれ「ポコッ! ポコッ!」と奇妙な音をだすと確実に全員の牛が夫をみつめるのでおかしくなります。夫はその技術(?)をインドで学んだと自慢します。わたしも娘も修行(?)していますが、本場仕込みの夫にはかないません。なにしろ夫は車で通りすぎながらも牧場の牛全員の注目を浴びる事ができるのです。
牛のかわいい顔も、のんびりしたしぐさも、好奇心が強いところもみんな好きです。そして、わたしたちにミルクを…その<身体>を気前よくくださるひろい気持ちも…頭がさがるおもいです。インドでは<牛は神さま>といわれているのですね。
でも、いちばんわたしの興味をひくのが牛の模様なのです。白と黒のあの、すばらしい模様…。同じ模様の牛はいません。人間もひとりひとり顔がちがうように。
冒頭の写真はプリンス・エドワード島でみかけた<腹巻き牛>ですが、まだまだお腹に恐竜の模様がある<おなかに恐竜を抱く牛>、額にハートが浮き出た<ハート牛><イニシャル牛><墨汁一滴牛><バットマン牛>…ときりがありません。
牧場にはうす茶色の牛もいますが、特色がなくて気の毒です。そのうす茶色の牛について娘が幼い頃、「あの牛さんからはコーヒー牛乳がでるのよ」と冗談でいったのに信じてしまったようで、後年娘に責められました。しかし、うす茶色の牛からは本当にコーヒー牛乳が取れそうです。
 
プリンス・エドワード島ではどこに行っても牛に出会います。
何年も前、ピカリングさんの家を訪ねた事があります。ピカリングさんは牧場を持っていて、百年前のストーンハウス(石の家)に住んでいました。その家の前の五本のりんごの木は日本のCMに使われた事もあります。
夏の夕暮れ…といっても八時をすぎたころ。外は藍色のうす闇で立っているとわたしの指先も藍色に染まりそうでした。
窓の外ではたくさんの牛がまだ草を食べていました。
後継者のいないピカリング夫妻はその牧場も百年前の石の家も売って、老人ホームに入る決心をしたといいます。「牛をこのまま引き継いでくれるひと」を探していると寂しそうな眼差しで話してくれました。
ピカリング夫妻が牛を愛し、大切に思っていることはその部屋をみればわかりました。
いたるところに牛……クッションも壁掛けも置物もみんな牛…。
ピカリング夫人はただ首を横にふるばかりで、わたしたちに「クッキーがないから」とパンを出し、バターを塗ってくれました。わたしはそのバター付きのパンをゆっくりと味わっていただきました。目の前のキャビネットには大きな牛の絵皿が飾ってありました。
(ピカリングさんの牛がいい人に引き継がれますように)
 
その丘を<ピカリングさんの丘>と名づけました。
今、牛と石の家を買ったひとはその両方を大切にしているようです。数年後、その場所を通りかかると、以前のように草をはむ牛が見え、屋根はあたらしくなりましたが昔のままの石の家が丘の上に建っていました。りんごの木も大きくなって……。
<主>がかわっても変わらない風景。大切に守っていかなくてはいけないもの……
ほんの束の間、ピカリングさん夫妻に接したわたしたち。それでもあの場所が<変わっていない>ことにこんなに心休まるのはどんなに年月が経ってもひとが追い求めているものは変わらないからなのでしょうか。
 
<牛の模様評論家>という肩書きがあったら、ぜひ名乗り出たいと思っています。
そしてずっとあたためている<牛の模様に隠された秘密>の物語を書きたい…。
それはともかく……牛たちはお互いに自分達の模様をどう感じているのでしょうか。
<腹巻き牛>は冬の日、仲間にうらやましがられにちがいありません。

























 
   八月の小窓
 
         ティム・ティム・サーカスの思い出
 
ティムにはずっと申し訳ない気持ちがしていました。
キャンディのあとの作品で<ゴールデン・コンビ再び>というような触れ込みで連載が始まりましたが、原作者のわたしがすでに(原作者をやめよう)と決心していたこともあって<キャンディ>のような熱の入れ方は正直、出来なかったからです。
書いている間は夢中になっていましたが、原作という仕事に夢をもっていたころと同じ気分にはどうしてもなれませんでした。
しかし、わたしの大切な物語には変わりありません。
特に、「今度の作品はサーカスを舞台にしたい」と申し入れをしたのはわたしなのです。
昔も今も、サーカスにあこがれています。
わたしが子供の頃はまだ<夕暮れまで遊んでいたらさらわれてサーカスに売られてしまうよ>といったサーカスの人に申し訳ないような言葉が世間にも残っていました。
(サーカスとはどんなところかしら・・?)
幼い頃、読んだ漫画も忘れられません。サーカスを舞台にした身寄りのない女の子とサーカスのおじさんのお話……作者の名前は忘れてしまいましたが、厳しく芸を教え込むおじさんと女の子が銭湯にいき、帰り道おじさんにおぶわれてお月様を見る…そんな何気ないけれど哀愁のあるシーンが記憶に残っています。
子供の頃、母親に連れていってもらったサーカスで、出会った象の潤んだ瞳。動物園にいる象やさるたちとはまるで違ったサーカスの動物たちの人間に近い哀しげなそして暖かい表情……。
キャンディのあとの連載はそんな世界を描いてみたかったのです。
動物も人間もみんないっしょ。ピエロに玉乗り、空中ブランコ、マジシャン…
テントを立てたところが彼らの世界。みんなに夢を贈り、ある日突然、テントを畳んで消えるように次の町へ……
サーカスの資料は当時少なく、<サーカスの歴史>や<映画>をみましたが、ティムの世界を描くにはもっともっと調べ、原作として醗酵してから書くべきだったと、後年、ティムにすまなく思っていました。
 
1996年、いがらしさんから<ティムを香港の玉皇朝出版が出してくれる>と聞いた時は素直にうれしかった……売れ行きが芳しくなく絶版になっていたことをずっと残念に思っていたのです。(当時、キャンディの版権は講談社が管理していました。<玉皇朝>はその版権が近々切れるのを知っていて、その権利を得たがっていました。ティムはその先行出版だったと今、良く分かります。)
しかし、わたしの<ティム>に対する甘いなつかしさはいがらしさんの次の言葉で半減してしまいました。
「ティムを本にするから、らとちゃん(わたしのこと)委任状くれる?」
わたしはムッとしました。わたしたちは<創作者>です。不動産屋ではありません。<委任状>など必要のない世界で仕事をしていると認識していました。
わたしが「なんで委任状を…」と渋ると、いがらしさんは今も記憶に残る激しく責める口調で「な〜んで!? くれないの!? 満ちゃん(井沢 満氏)もあずさも(中島梓氏)も気持ち良くくれたのに!」といいました。いつもとはちがった声音に反射的に「わかった……」と深く考えもせずに承諾していました。井沢氏も中島氏も<委任状>を渡したのならば仕方がない、と思ったのです。(それは現在、いがらしさんの嘘だったことがわかりました。中島梓氏は知りませんが井沢氏に関しては委任状は渡していないそうです。)けれど、わたしは<創作するものが委任状を必要とするなんておかしい>と感じていたので、いがらしさんに「これっきりにしてね」といいました。
いがらしさんは不服そうでしたが、一応わたしがその時は承諾したのでその話はそれきりになりました。それからすぐにいがらしさんから<委任状>が送られて来て、わたしは捺印して送り返しました。
 
<委任状>の内容は<原作者として出版を委任する>といった簡単な文面です。
勿論、書籍から<原作者名を削除>していいとは書いてありません。
その後<玉皇朝出版>からも、村中志津枝氏(鈴賀れにさん)からも書籍はもちろん送って来ず、なにもいってこないので<ティム>のことは念頭からはなれていました。
 
1997年5月、プリクラ事件が発覚後、すぐに<玉皇朝無断出版契約事件>も発覚、そのとき村中氏と接触、<ティムの本が出ていること>をはっきりと確認したのです。
村中氏は悪びれもせず「えっ? いがらしさんから貰っていませんでした?」といいました。もらっていないのですぐに送るように強くいいました。村中氏はそのとき「はい」ととても素直に承諾してくれたのですがなかなか送ってきません。
そのときはティムより無断でキャンディの書籍を契約した<玉皇朝とキャンディ・コーポレイション>の問題の方が大きく、どうしてもティムのことは後回しになっていました。
けれど、心にかかるものがあったのでわたしは何回も村中氏に<ティムがまだ届かない>とFAXを送っていました。そのたびに<もう売れていないので編集部にもない>と言った返事が返ってきます。ティムの出版はたった10ヶ月前。その本が編集部にないということ自体、不思議ですがそのときは村中さんがいうことを疑問に思いつつも信じていました。
しかし、あまり待たされるのでとうとう痺れをきらし香港に電話し、「いがらしさんが持っているでしょう。一部でいいからはやくみせて」と強く要請したのです。
村中さんの返事は「それが…いがらしさんのところにも一冊もないんです。」
だんだん不信感が芽生えていたわたしはこの間のやりとりはよく覚えています。
「本屋ならあるでしょう。買って来て送って」と重ねていうわたしに「本屋にもないんです。とにかく探しますから…」と村中さんは言い続けるだけでした。
 
キャンディについては、もう刷り上がっているということで、村中さんの困惑しきった様子、涙をみてキャンディコーポとの契約を解除して新たに個別に契約するならと許諾しました。
村中さんは6月24日の契約の日に香港からティムを持って来てくれるといっていましたが「やはりみつからない」ということで手ぶらで、上司のアラン・ウォン氏と共に来日しました。
わたしが<玉皇朝>も今回の<ティム偽造本>に関っていると思うのはその<アラン氏>も「ティム」の話題を出しているとき、村中氏の横で黙って聞いていたからです。
いくら日本語がわからない(少しは分かるらしい)といっても<ティム>という言葉は理解できるのではと思います。別かれる時もわたしは執拗に「ティムを送ってね」とアラン氏と村中氏を交互に見て言っています。
 
ティムの本がやっと倉庫でみつかった、と村中さんから連絡があったのはキャンディの契約をすませた後、7月に入ってからでした。
「ようやく見つかりました。でも…お詫びしなくてはならないことがあるのです」
村中さんは殊勝な口調で「下巻の奥付けに水木さんの名前が手違いで消えてしまっているのです」とのことでした。わたしは不快に思いましたが、もう出来てしまったものはしかたない、と返事しました。
 
以上がティムに関するメモからのレポートです。
村中さんの返事のひとつひとつが、なんとなく心に引っかかっていたのだと思います。
今、きちんと思い返せば<おかしなこと>だらけだったのに……。
まさか偽造本を作って、送ってくるなんて想像だにしませんでした。
 
今回、お知らせをうけても、半信半疑でした。
いったいなんのために、そんなことを……
偽造本を送られてから4年目。7月28日、この目で確認しました。
印刷に詳しい人も同席していましたが、素人目にも<二冊の本>を比較するとおかしいと感じました。
水木杏子の名前入りの本は、<印刷も紙質>も違います。
下巻は本の表紙の色も違い、大きさも微妙に大きくカバーなどは完璧にずれていました。
そんなことより、同じ1996年8月出版で<玉皇朝出版>の<出版コード>まで同じの初版本が二冊(いがらしさんの名前のみと水木の名前入り)が存在することだけで不正は充分証明されると思います。
あわてて作成したチェックミスで下巻の奥付けから水木の名前が消えたのでしょう。
裁判にならなければ、またこんなに裁判が長引かなければ、この事件も闇に葬られていたと思います。
見つけてくださってほんとうにありがとうございました。
時間をかけても、村中さん(鈴賀れにさん)<玉皇朝出版>を追求していくつもりです。
 
サーカス……
後年、サーカスの司会として共に旅していたひとと知り合いました。
その人から、わたしの想像していた通りの美しい、そして哀愁のある言葉を聞く事ができました。
「テントはあっという間に取り払われるんだよ。最後の公演でみんなと別れたあと、早朝テントのあった場所にいってみたんだ……なんにもなかった……昨日まではあんなにたくさんのひとたち…喧騒に音楽…・それがなんにもない…ただ、朝もやが流れていただけだった……いままで夢を見ていたのかと思った……」
 
 

























まだ羽もそろわず、くちばしも小さいぴよちゃん。

たくましく成長し,夫くんがつくった巣箱でくつろぐぴよちゃん。
いつの日かこの巣箱に帰って来てね、と願っていたのだが・・・

 七月の小窓
 
  やさしい時間
 
上の二枚の写真はヒヨドリの<ぴよちゃん>です。
去年の6月半ばの早朝。窓の外で訴えかけるような甲高いヒヨドリの声に混じってか細いピイピイという声がするので、庭に出てみると草の中で仰向けに倒れ、ないているヒナをみつけました。
ヒナは全身に小さな蟻がつき、震えています。親鳥が周囲を飛び回り高い声でないて、助けを求めていました。
思わず、「ぴよちゃん!だいじょうぶ?」と声をかけていました。(同じハンドルネームのぴよさん、ごめんなさいね)
巣をさがしたのですが、どこにもなく近くでカラスが狙っているように飛んでいたのでぴよちゃんを連れて家にはいりました。
夫が洋服ブラシで丁寧にぐったりしたぴよちゃんについた蟻をとりました。
九官鳥のケルルちゃんのセカンドハウス(?)に入れ、デッキに置き入り口を開けていると、すぐに親鳥がエサを運んできました。ぴよちゃんがやっとエサを口にすると、親鳥は安心したようにまた飛び立ち、エサを探して戻ってきます。何度も、何度も……。
わたしは窓越しに、すっかり感動してその光景を見守っていました。
日没まで親鳥のエサ運びはつづき、(また、明日きます。あと、どうかよろしく)というように親鳥は大きくないて夕空の向こうに飛び立っていきました。
わたしは籠を部屋にいれ、まだまだお腹がすいているようなぴよちゃんにケルルちゃんの
すりえを小さなおだんごにして口に押し込みました。うまく飲み込んでくれたので、ああ、この子は生きていける……ほっとしました。
見つけた時はトロンとしていたちいさなキャビアのような瞳が生き生きしてきました。
 
それから毎日、日中は親鳥がデッキに置いた籠のぴよちゃんにエサ運んで来て、夜はわたしたち家族の担当、というように役割が決まりぴよちゃんは羽も少しずつ伸びてきて、元気に育っていきました。
そして、その無事を確かめたかのようにある日から突然、親鳥が来なくなったのです。
ぴよちゃんはその日から、家のなかで放し飼いのまま育っていきました。
まだちゃんと飛べないので、夫がぴよちゃんを手に乗せて何度も上下におろし、飛ぶ訓練をしました。上下におろす速度がはやいと<はばたき>の練習になるからです。
ぴよちゃんは自由に家の中をとびまわり、娘の肩に乗ったまま居眠りをしたり、呼ぶと「ぴぃ〜!」と返事をして飛んでくるようになりました。
窓を開け放しているので毎朝、夫や娘が出かける時「帰ったらもういないかもしれないから覚悟してね」と念を押すのが習慣になりました。
そう、毎日ぴよちゃんは外に散歩にでかけ、もう帰らないのでは・・と胸痛むことの連続だったのです。まだ飛ぶ事に自信がないので、ぴよちゃんはたいてい近所の木にとまって途方にくれたように鳴いています。わたしが屋根にのぼって呼ぶとほっとしたように「ぴい〜!」とないて飛んで来て肩に止まって喉を鳴らすのでした。
お昼寝をしていて、はっと目が覚めたとき、胸にのってじっとわたしを覗き込んでいるぴよちゃんの瞳……そのやさしい純粋は瞳にどんなに癒されたかわかりません。
 
そのうちぴよちゃんは、だれに教わるでもなく<グライダー飛び>ができるようになりました。
100%のオレンジジュースが大好きで隠れて飲んでいても気がついて「ぴぃ〜!」とないて飛んできます。
エサも散歩の時に自分でみつけてくるようになりました。
ある日、蝉を追いかけ、つかまえて戻って来て食べているのを見て(もうひとりで生きていけるね)とほっとすると同時になんともいえない寂しさが胸に漂いました。
自然の生き物は飼う事はできない…・
初めからわかっていましたが、ここまでなついてくれ家族の一員になったぴよちゃんと別れる日がほんとうに近づいている……
しかし、ぴよちゃんは鳥の世界で生きていけるだろうか。人間のにおいを感じ取られ<いじめ>にあわないだろうか……心配はつきませんでした。
ぴよちゃんは加速度をつけたくましくなり、オーガンジィをかけた(フンよけに)スタンドに枝を運んでくるようにもなりました。
 
そして8月のある日…・
いつもより長い散歩を案じていたらぴよちゃんは友達をつれて帰ってきたのです。
友達は離れた木に止まり鳴いていましたが、ぴよちゃんは私が立っている軒下まで飛んできました。引き止めてはいけないとおもいつつ「ぴよちゃん、おいで! おいで!」とわたしは自分の肩をたたきました。いつもそうやると肩に飛んで止まるのです。
けれどぴよちゃんは軒下に止まり、鳴き続けるだけでした。
そして、お別れをいうように甲高く鳴き……
友達と飛び立っていきました。
暑い、真っ青な空の日でした。
わたしは空を見上げたまま(きっともう、帰らない…これでお別れ…)ぼんやりと長い間、佇んでいました。
 
その後3回ほど、ヒヨドリが軒先で鳴くことがありました。
「ぴよ!」と叫んでも、家には入ってきません。
そのヒヨドリがぴよちゃんかどうかはわかりません。でも、家族がそろっていたときにきて鳴いてくれたヒヨドリはぴよちゃんの声にそっくりでした。
 
あれから一年…・
夫がぴよちゃんが巣立ったあとも里帰りができるように作ってそう言い含めて(?)おいた巣箱にも戻ってきません。
けれど、たくさんのヒヨドリが毎日飛んできます。
この春くらいヒヨドリが集まった年はありませんでした。
いまでも、ヒヨドリを見かけるたびに、つい「ぴよ…」と呼んでしまいます。
なんというステキな時間をぴよちゃんはプレゼントしてくれたことでしょう。
あんなに小さな体で、感情をいっぱいに表して…
ぴよちゃんがいなくなってから、ふしぎなことに時たま放すケルルちゃんも飛び方がうまくなりました。
大空のどこかでわたしたちの家族が飛んでいると思うと、空を見上げてもなんだかうれしい気分になってきます。

























<プリンスエドワード島 秘密のポケットに咲くメイフラワー
 
 
 六月の小窓
 ユカそうじ姫たち
 
 
キャンディの物語を連載していた頃なので、もうはるか20数年前の事です。
「なかよし」の読者サービスで<キャンディの作者たちとハワイ旅行に行こう!>という企画がありました。どのくらい応募者がいたのかわかりませんが、その中で4人ほどの小学生が選ばれ一緒にハワイに行く事になりました。
メンバーは添乗員と「なかよし」からは担当のムッシュ・ベルナール、編集のチャーリー・Mと後にそのチャーリーと結ばれることになるソーイング・ミリィ嬢そしていがらしさんとわたしでした。
 
小学生たちは、みんな元気がよく利発でいつもクスクス笑っていました。
わたしたちの前では緊張するのか、話しかけてくることもあまりなく、固まって楽しそうにしていました。それでも日が経つに連れ、彼女たちと話すこともふえ仲間同士で愛称をつけて呼び合っていることを知りました。
<ユカそうじ姫>はそのなかのひとり、ユカちゃん、という子につけられた愛称でした。
本人はお気に召さなかったようでしたが、
「シンデレラのような名前ね」とわたしが笑うと、ショートヘアーのユカちゃんはおっとりとした笑みを浮かべました。
 
ユカそうじ姫はなんとなくわたしになついてくれ、海でも一緒になって潜って遊びました。ふたりとも魚が好きでパンくずをもって素潜りをするとブルー、ライトグリーン、ピンク…さまざまな色の魚が寄ってくるのです。
わたしとユカそうじ姫は、ほとんど同じ年のようにくっついて潜り魚を集めました。
旅もお終いに近づき、お土産を買うときになった夜のことでした。ユカそうじ姫が思いつめたような真剣な表情でホテルのわたしの部屋をノックしたのです。他の子も少し離れた後ろで真剣な顔をしています。どうしたの?と尋ねると、お土産を買うお金がたらなくなった、というのでした。
そんなことか、とおかしくなって「いくらたらないの?」そう聞くと、ユカちゃんは「千円…」と小さな声で遠慮深くいいました。
「千円でいいの?」そう聞き返すと、こっくりと頷きます。
千円を借りるために、ユカそうじ姫はきっとはじめは一人で悩み、そしてみんなと相談したのでしょう。みんなも色々考えたに違いありません。
わたしの部屋をたずねるまでどんなに決心がいり、ドキドキしていたかみんなの顔をみればわかりました。
 
わたしが貸した千円でユカそうじ姫は、どんなおみやげを買ったのでしょうか。
当時は羽田飛行場でした。狭い到着ロビーは出迎えの人たちで混んだ電車のようでした。みんなときちんとお別れもいえないまま迎えに来てくれた人と話していたとき、背中をつんつん押されました。振りかえると、ユカそうじ姫でした。
泣きそうなほど真剣な顔で息をはずませ、手には千円札を握りしめています。人ごみでわたしにはぐれ、お金を返しそびれてはいけないといった必死の表情でした。
「これ・・」
差し出された千円が輝かしくわたしの手のひらで光を放った気がしました。
「そんなよかったのに…」というと、ユカそうじ姫は大きく頭(かぶり)をふりました。
ユカそうじ姫から少し離れて、ユカちゃんに良く似たお母さんがやはり真剣な顔でなんどもわたしに頭を下げていました。ユカそうじ姫は迎えにきたおかあさんに「ただいま」をいうより先にわたしに借りた千円のことをいったのでしょう。
あんなに<一生懸命、お金を返された>のは初めてでした。
 
ユカそうじ姫はそれから何回もお手紙をくれました。
キャンディファンであったことは確かですが、キャンディのことはほとんど手紙にはなくこまごまとした毎日の事がいつも記されていました。
わたしは何回 ユカそうじ姫にお返事を書いたでしょう…
わたしがなかなか返事を書かないうちにユカそうじ姫からのお手紙は遠のき、時間がハワイでの日々を少しずつかなたへと流し去っていきました。
 
この事件が起きて<CCネット>の賑わいを初めてみたとき、まず思い出したのが<ユカそうじ姫>のことでした。
ネットに書いているひとたち……たぶん、ユカそうじ姫と同じ年齢ではないか、と。
いつもニコニコしていたユカそうじ姫、色黒で利発な女の子…ハワイに一緒に行った子達が成長してそのネットに集まっているようで……
とてもなつかしく「大きくなったのね……」と思わず事件を忘れてネットに見入ったのでした。
 
20数年という月日は、わたし個人だけでなくユカそうじ姫たちの上にも確かに流れ、その間、さまざまな出来事があったことでしょう。
ネットに集うひとたちはその間も、キャンディの事を忘れずにいてくれていたのです。
キャンディをなつかしむ気持ちだけは真実であっただろうと信じています。
 
今現在もCCネットはわたしにとって困惑と頭痛の種であることは事実です。
そして、わたしにとってキャンディの読者はみんな<なつかしい ユカそうじ姫>でしたが、読者によっては原作者への気持ちはさまざまだということを痛感しました。
ある読者たちにとっては、キャンディはいがらしさんが描かれた<絵そのもの>なのでしょう。
そういった読者たちにとって、この事件はどんなに腹立たしいことかと思います。
<いがらし先生の絵